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誰でも大学に行ける社会の違和感。

非大卒でも食える社会の方が健全では?

 今や3人に2人が大学に行く時代…。私が高校生だった頃は2人に1人と言われていたが、いかんせん大卒至上主義な高学歴社会の日本では、非大卒だと何かと不遇な扱いを受けることは明白である。

 そのため、Fランクだろうが何だろうが、行けるものなら貸与型奨学金を借りてでも、取り敢えず大学に行って学士を取得するという潮流は、私が高校生の頃から何ら変わらない。

 上記の記事では、高卒で就職を選択する学生が未だ15%以上いるが、大企業ほど採用に消極的であること。普通科の高校生は商業科や工業科と違い、社会に出るための教育を十分に受けていないため、多くの企業が採用の眼中にないこと。そもそも教員が非大卒のため、高卒で就職する「1人1社制」の仕組みが理解されていないことが挙げられている。

 その対処方法として、AO入試などの必ずしも学力を必要としない制度の活用や、給付型奨学金や学費の減免制度の活用が取り上げられ、たとえお金がなくても、勉強できなくても大学には行けると締めくくられる。

 週刊誌の記事であるため、鵜呑みにはしていないものの、個人的には勉強できなくて大学に行ける社会よりも、非大卒でもそれなりに食える社会があるべき姿なのではないかと感じてならない。

 昨今の大学の研究力、競争力の低下は、研究分野でもコスパが重要視される風潮にあり、研究者が食えない現実も一因として考えられる。しかしそれ以上に、本来は研究機関である筈の大学が、日本社会が大卒至上主義化したことで職業訓練校化し、研究の土台となる筈の講義が、卒業単位を積み増すタスク化したことで、大学で要求される学力レベルのボトムが低下していることの方が深刻に思えてならない。

高校を出た直後に行く大学の意義。

 かく言う私は、家庭の経済状況や平均的な学力レベル、当時は勉強する気がなかったことを鑑みて、工業高校に進学し、高校を出た直後は一度社会に出た。

 大学はその気になれば何歳になっても行ける場所と考えていたし、なにより勉強する気がないのに、借金してまで学費の高い大学に行って勉強する意義を見出せなかった。

 事実として、大卒は4年遅れで社会に出る(=定年までの就業期間が高卒比で4年短い)にも関わらず、統計上、生涯賃金は非大卒よりも数千万円高い。世間一般で想定されるモデルケースである、教育→就業→引退のライフステージを歩む前提なら、学士を取った方がコスパは良い。

 しかし、進路を考え始める時期に、リーマンショックの煽りで大学生の就職難が話題となっていたことや、日本航空の経営破綻に伴う人員整理をリアルタイムで見て色々と考えさせられた。

 当時は夕張市の財政破綻も記憶に新しかったことから、例え大企業や公務員であっても、ひとつの組織に定年まで勤め続けることが、もはや絵空事なのは、当時稚拙だった私の頭で考えても分かりきっていたことだった。

 そこで一旦は高卒で借金を背負わず社会に出て、数年経過してから大学に在籍する運びとなった。社会に出て自発的に学びたいと思う意欲が芽生えてから、自分自身で学費を捻出して入学したことも相まって、高校を出た直後に大学に行くよりも、実学として身になっている実感がある。

 実際、私が社会に出た数年後に、トヨタの社長が終身雇用を維持するのは難しいと発言したことが話題となったり、最近になって政府が学び直しを後押しする考えを示している。

 世間では未だに非大卒で社会を出た者が冷遇されているものの、これまでの23歳時点のステータスで、賃金労働者としての階級や天井が決まるも同然な、大卒至上主義の潮流が変わる僅かな気配は感じる。とはいえ、私は努力など報われない前提で、無駄に努力しない信条のため、期待はしていない。

社会の枠組みや同調圧力を無視する力。

 日本社会の就業者6,000万人超の実に9割近くが賃金労働者、いわゆるサラリーマンとして勤めているらしい。

 ロバート・キヨサキ氏の著書「金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント」には、お金を得る手法として、従業員、自営業者、ビジネスオーナー、投資家に大別しているが、残り1割の大半が自営業者を占め、ビジネスオーナー、投資家は殆どいない。

 これは学校教育がサラリーマンを量産する仕組みになっており、学校を卒業した後に開業して自営業者になったり、起業してビジネスオーナーになるための教育を、殆どの学生が受けることなく、さも当たり前の様に社会に出る。

 そうして40年前後か、下手したら半世紀近くもの間、社会システムの歯車として、暗黙の枠組みに嵌められる人生を過ごす。結婚して子供を養う義務を負おうものなら、子供が自立するまで、この枠組みから抜け出すことは困難を伴う。一度レールから外れたら、基本的に元の世界には戻れない、片道切符同然だからである。

 それでもバブル期までは、日本社会全体のパイが成長していたから、年功序列、終身雇用がつつがなく機能し、働いてさえいれば、それなりに豊かに暮らせたのもまた事実である。

 しかしご存知の通り、少子高齢化で人口減少社会となり、世代間扶養の仕組みである社会保障の構造が、神輿型→騎馬戦型→肩車型化し、現役世代の負担が増大する一方で、先行きが不透明故に企業は従業員への還元を渋り、そもそもの原資がなかったりで賃金は横ばいか、良くて微増。

 実質賃金は増大する社会保険料に相殺されて減少傾向にあり、生活苦を感じながら重い社会保険料を負担して社会を支えたところで、支えられる側になる頃に現役時代の負担に見合うだけの保障は受けられない。

 現に、厚生年金は1960年生まれ以降払い損になると試算されており、バブル崩壊後に生まれた、現代の若者は世代会計で2,000万円以上損をするなんて試算もあり、将来世代になればなるほど、この傾向が顕著となる。

 若年層ほど内心おかしいと思っているだろう。どうせ払い損なら、年金も社会保険料も出来ることなら支払いたくないだろう。それでも生活が掛かっているから、社畜を辞めるに辞められない。

 しかし、日本は異端児を村八分にする冷酷な社会な一方で、低所得者には情状酌量の余地がある国でもあり、社会から逸脱しても、見栄や世間体を無視できれば、なんとでもなる場合が多い。

 それを実証するために私は今春に早期退職に踏み切り、分離課税の金融資産所得で、表面上は低所得者を装い公共サービスや社会保障の便益は受けつつも、対価は合法的に免除ないし減免されるような、レールから外れた人生でも、穏やかに暮らせるか実践し、生きづらさを感じる若年層や将来世代に、ひとつの道標として提示できたらと思う今日この頃である。

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