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高校の卒業式ぶりに、HARUTAの革靴を履いて本屋に出かけた日

なんとなく、その日の洋服に似合うのは革靴だと思った。

最後に履いたのは、冗談抜きに高校の卒業式だった。お天気雨が降りそうな、春の晴れた日だった。
もうあれから4年が過ぎている。さすがに捨てられただろうと思い、ダメ元で母親に「革靴って、まだあるっけ。」と聞く。

「まだあるよ、捨てるのはなんとなく憚られて。」母親は、どことなく恥じらう様子であっさりと答えた。


靴箱を少し漁ると、靴に埋れて若干変形したHARUTAの革靴がすぐに出てきた。本当に、毎日毎日履いていたあの革靴だった。

すぐに足を通してみると、ちょうどぴったりのサイズにはまった。あの頃から足のサイズは変化していなかったようだ。
履いてみて、すぐ中に異物を感じた。おそらく、卒業式の寒い体育館に耐えるためだったのだろう、靴底に貼るカイロがそのまんま貼ってあった。
数年の月日が経ったカイロは、少し膨らんでいて硬い。
二度と温まることのないそのカイロを、靴底にはっつけたまま街の本屋さんに出かけることにした。

高校生の頃は絶対に想像しなかった私服のスタイルで、いつも使っていた最寄りの駅の階段を降りた。
革靴の、独特の音に耳を済ませる。カンカンカン...でもなく、トントントン...でもない、革靴にしか出せない音を出して、ホームまで降りた。
何百回も歩いた駅のホーム。この革靴で、何回も歩いた。

期待したけど、特別エモーショナルな感情は浮かばなかった。懐かしいはずの革靴の音なんてもはや忘れてしまっていたし、駅のホームを革靴で歩く自分も、全然気恥ずかしくなかった。靴擦れすら起こしていない。
あまりの感情の起伏のなさに、とくべつ落ち込むことも、悲しむこともなく、淡々と電車に乗った。



目的地につく。広島駅の前にある、蔦屋書店だ。
純粋な広島県民だった高校生のころは、全く本を読まなかった。平日も土日も、毎日オーケストラの部活の練習に励み、本や活字の面白さなどには微塵も気づいていなかった。

東京に進学して、コロナで帰省して、大学4年生になろうとしている今、わたしはあの頃に革靴を履いて(制服を着て)ぜったいに来なかったであろう、大きな本屋さんにいる。

不思議だなあ、何もかも。

そんなことを思いながら、探している本を求めて練り歩く。

お洒落な駅前の蔦屋書店の床は、独特な木っぽいテイストでできている。わたしが革靴で歩くたび、ヒールでも、スニーカーでも出せないような足音が響いた。日曜の夜、閉店時間の1時間前で人は少ない。

もうちょっと革靴の音を聴いてみたくて、本棚を見ているフリをしながら、かかと から70°くらいの角度で足をゆっくり下げる。

「グオ トン」

目線は本に落としたまま、足下からは、ちょっと頭が良さげな、高級な音がした。

そんな靴音遊びが面白いのも束の間。
目的の本を探すも、それが何一つ置かれていないことが判明した。

「駅前なのになんで無いんだよ...」「なんでこの著者はいるのにこっちはいないんだよ...」とイライラしてきた気持ちを抑えるために、近接のスタバで抹茶フラペチーノを思い切り吸った。

結局、蔦屋書店の隣のやや古臭いフタバ書店に生き、やや目当てだった古本を買った。

その書店はなんだか陰湿なイメージがあり、なんとなく古いホコリの匂いもする、まあまあ年季の入った本屋だ。上の階に満喫もあるせいか、漫画・アニメ好きな方々も多く訪れるようなサブカル度合いだ。20時を過ぎてわたしのような若い女は店内でも見かけなかった。

この本屋もまた、高校生の頃はぜったいに近づかなかった場所だ。
その場所に、あの頃の革靴で踏み入る。

母校よりだいぶ遠い本屋に、どうしてこんなにも熱心に興味を持って入るようになったのか。それは、4年前、この近くで本をむさぼる浪人生活をしていたからだった。


わたしは、最後に革靴を履いたその次の日から、浪人生になったのだ。

次にゆく宛先の無い春ほど、憂鬱で、桜を見る気になれない春はない。
わたしが最後に革靴を履いた日の教室には、受験が終わって安堵したり、長い青春の終わりに涙をこぼすクラスメートがわんさかいた。

そんな同級生を横目に、教室の中でわたし1人だけが言葉にならない孤独と、絶望と、自分を待っている戦いへの恐怖で、泥のような気持ちを抱えていたのを思い出す。

青春など、まったく蒼くなかったよなあ。 

そんな気持ちを、一歩一歩確認していくようにゆっくりと歩き進めた。
ふと気づくと、予備校の近くにある川べりを歩いていた。夜の川は音もなく静かに流れ、どろどろに溶けた鉄のような模様になって広島の夜の明かりを写す。

あれから4年が経ち、わたしはなんとか志望の大学に合格して東京に出た。

浪人という1年の足踏みを経てはじまる大学生活は、高校の頃の想像とはまるで違うように見えた。
新歓の雑踏は初っ端からもはや煩わしく、調子をこいた上級生(本当は自分と同い年)に何度も同じ自己紹介をしたのが苦痛でたまらなかった。唯一興味があると感じたサークルの上級生はつまらない常套句しか口にせず、心身がどんどん疲弊していった。

進学した法学部の語学クラスもそうだった。「少なくともこの人たちとは、一生深みのある話はできなさそう」と早々に踏ん切りをつけ、わたしは気づけばサークルにもゼミにも入っていない、フラフラと歩く根無し大学生になっていた。

やっとの思いで入学した大学も、入る学部を間違えていることにすぐに気がついた。わたしは法学など一切興味がなかったのだ。今思えばろくに取組もしない「就活」というもののために、聞こえだけは華やかな「名門の法学部」という肩書きになぜ食らいついたんだろう、と不思議にさえ思う。

それに、法学部に集まってきている人間もよくなかった。「医者の親が、文系に進むなら法学部しかゆるさなかった」とか、「なんとなく安泰だと思った」とか「東大法学部落ちました私立○ね」系、「しょうもないクソ真面目」とか、そういう、わたしみたいな屍がたくさんいた。
だからといって繋がりたいと思うはずもなく、法学部の建物は、わたしには今だに安置場に見えてしまう。

自己探究の末、自分が文化芸術に深い興味と愛好心があることを知ったのは、随分と先のことだった。転部の受付が、ちょうど2週間ほど前に終了していた頃だった。

革靴に再び足を通した先日、湧き上がってくる様々な虚無感を必死に押さえながら、高校生の頃は一回も足を踏み入れなかった場所で熱心に本を探していた。

それ自体は決してネガティブなことではなく、心に豊かな部分を持てたことには純粋に嬉しく思った。活字の世界や、こうして言葉を信じて吐き出していく行為を心の底から好きになれたのは、紛れもなく、大学入学以降こつこつと誰よりも自分自身と過ごしてきた膨大な時間があるからだ。

あらゆる現実から目を背け、逃げるようにして言葉の空間に逃げていく時間は、わたしにとっては今でも唯一の癒しだ。

でも、高校生だった頃の自分も、憧れの大学に胸を焦しながら1年中憂鬱だった浪人生としての自分も、ここにはいない。

HARUTAを履いて街へ出かけた日、わたしは思いを強くした。


やっぱり、春が嫌いだ。

春は、いつだってもの悲しい。寂しくて、憂鬱だ。
今よりももっとピュアだった頃の自分や、心が通じあっていたはずの人との言葉なき別れを思い出す。春が芽吹くときの、強烈なにおいと風に、蓋をしていた感情が再びうずめく。

もうすぐ5回目の春がくる。
そろそろ、わたしの春の思い出は塗り替えられるだろうか。月日が経っても、季節が変わっても思い出したくなるような、うつくしい思い出を作れるだろうか。憂鬱な春を、今回ばかりは洗い出せるだろうか。

わたしは近々また東京に戻る。高校の頃、決して革靴では踏み入れることのなかった東京の街で、都会らしく素知らぬ顔でどんどん歩いたら、春はどうなるだろう。


この革靴を、お気に入りのあの短いスカートと合わせてみようか。
4月いっぱいは履けるかな。いや、年中いけるかな。

そうやって、少しずつ動いて、少しずつ記憶を塗り替えていくしか、今のわたしには思いつかない。

もうすぐ、春がくる。

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