1.仕事に対する原体験 -女子高生イベンターとしての日々

私の仕事に対する原体験は、高校生の頃に始めたイベンターとしての活動だと思う。

地元の山口県で、女子高生イベンターとして、月1くらいでイベントの企画をしていた。
バンドもやっていたが、企画の方が性に合っているというか、向いていた。

中学校の頃に初めて組んだバンドは、10代の私、20代のボーカル、ギター、30代のドラム、40代のベースというメンバーだった。
ベースの方はメンバーであり、ギターの先生でもあって、なおかつ常に3〜4バンドを掛け持っている(しかも昼の仕事もちゃんとしていて子供も4人いた)というすごい人だった。県内でいろんなライブを企画していて、私の初ライブも先生の企画だった。

ライブの緊張感や楽しさはもちろん感じだけど、「企画って自分でできるの!?すごい!!」と感激していた記憶も鮮明である。

実はこの頃、私は高校を登校拒否していた。
中学校で成績が良かったので進学校に進んだものの、勉強は中学校でやりきった!という思いと、小学校の頃から自分は音楽関係の仕事に就くのだと思っていたので勉強する意味が分からなくなってしまったのである。
ほぼ100%大学進学する高校にいて、このマインドへの当たりはなかなか厳しかった。

ある日、学年集会が開かれ、模試の結果が去年の先輩たちのときより悪かったこと、このままだとほかの私立に負けてしまう、などと言われた。

去年の先輩たちとの比較がなぜ私に関係あるんだろう?
学年で300人以上いる私たちと、少数精鋭で40人の特進コースを設けている私立の平均点を比べて負けているとか意味わからない。

ただでさえ勉強にやる気をなくしている私は困惑した。
だけど、学年集会終わりに聞こえてきた会話は「そうだね、私たちもがんばらなくちゃね!」というものだった。
それが心底、ショックだった。
なんで勉強するの?夢もないのに。

その日から教室にいると息苦しくなった。
早退しようとしたら止められて、泣き続けたらひたすら理由を聞かれて、分かってくれるはずがないから話せなくて、半日一人で教室に閉じ込められた。

次の日に家出した。
会ったこともない名古屋のメル友に会いに行こうと思っていたが、結局会うことができず、折り返して祖母のいる岡山までどうにか帰った。

そこから、しばらく学校へは行けなかった。
親戚のおばさんや先生が心配して代わる代わる来てくれたが、私は登校拒否自体がそんなに重大な問題ではないと思っていて、だからこそなぜ行きたくないのを行かせようとするのか分からなかった。
ただ、親に心配かけていることにはとても心が痛んだ。

バンドは続けていた。
年上のメンバーはみんな優しくて、そしてフラットだった。学校行きなさい、とは言わない。
目の前の楽しいことをたくさん教えてくれた。
バンドや音楽には学校のことは関係がなかった。

「先生」は親と同じ年だったので、もちろん親目線で心配もしてくれたと思うが、距離がある分相談しやすいことも多かった。
私は先生に「企画をやってみたい」と伝えた。

先生はやり方を教えてくれ、地元のライブハウスを紹介してくれた。
よく使っていたスタジオの店主にも相談に乗ってくれた。

自分の頭で考えたことが現実になる。
自分の手で開いたものに、たくさんの人が集まる。
私の価値は勉強できることだけじゃない。
学校の友達はいなくても、バンドの繋がりで年上の友達がたくさんできた。

企画の実現は、本当に素晴らしい経験だった。
全バンド人口がひとつのライブハウスに集中するような地方の市である。
女子高生イベンターの存在は珍しがられて、ツアーバンドのための企画をライブハウスから頼まれることもあった。
毎回100人規模で人は集まっていたから、今思ってもよくやったなと思う。欲があればもっと稼ぐこともできただろう。

学校という存在がどうでもよくなったので、逆に行けるようになるという謎の現象も起きた。
休み休み行って、赤点をとっても笑っていた。
復帰して最初の試験で自分の下に50人くらいいて、あんなに真剣に悩んでいた自分は何だったのか?となった。

高校を卒業して上京する前に、最後の企画をやった。
今まで出演してくれたバンドが集まり、後輩の女の子が「あなたの後を受け継ぎます」と宣言してくれた。

音楽、イベント、企画。
私の原体験は全てここにある。
ここから全てが始まったのだ。


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