「写る・映る」ではなく「移る」・その1
川端康成の文章には、どきりとすることを淡々と書いている箇所が多々あります。
私は読んだ作品の内容を要約するのが苦手なので、内容に興味のある方は、以下の資料をご覧ください。丸投げをお許し願います。
*「うつっている」
パソコンをつかって書きうつした(キーボードのキーを叩いて入力した)文章をさらに、一文ずつ、ここにうつしかえて、私の言葉を重ねていこうと思います。
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・「しかし、私は写真の感情が心にしみた。」
「写真の感情」とあります。擬人と言えるのでしょうが、その写真にうつっているのが死者の顔ですから、たとえば庭の石をうつした写真とは趣が大きく異なります。
亡くなった人間、それも親しい、つい十数時間前には会っていただろう人間の死顔(しにがお)を撮った写真です。その「写真(という物)の感情」が「心にしみた」とあります。
しみる、染みる、沁みる、浸みる。
染、沁、浸――どれもが異なる意味合いを持ち、また異なるイメージを感じさせます。そのどれをも含んだ「しみた」です。和語(大和言葉)の動詞をひらがなで書くと、多義性と多層性が浮かびあがります。
川端は和語の動詞をひらがなで表記することの多い書き手です。
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・「感情は写される名人の死顔にあるのだろうか。」
写真という物に自分が感じた、感情のありかを探っています。物である写真に感情があるのかではなく、写された対象である名人の死んだ顔に感情があるのか、という自問です。
「うつされる」ではなく「写される」とあります。光学的な装置であるカメラ(写真機)で写した(撮影した)という意味を明確にしたいからでしょう。
(日本語の表記における)漢字は意味を分けて限定します。ただし、限定が明確かどうかはつねに不明です。人には分かりようがない気がします。分けても分かるとはかぎりません。
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名人の死顔の写真を撮ったのは川端自身です。
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話をもどします。
・「感情は写される名人の死顔にあるのだろうか。」
「写された」ではなく「写される」とあります。写されていま目の前にある写真に写った「名人の死顔」ではなく、「写される」前に、あるいは「写される」過程で何枚か撮っているあいだに川端が見た死顔をさすのかもしれません。
そうであれば回想しているわけです。目の前の死顔の写真と、記憶の中にある撮影時の死顔をくらべていることになります。
写されるさなかの、顔を撮られる名人に川端はなんらかの感情を読み取ったと想像しても不自然はないでしょう。写す「対象」、というより写す「相手」は亡くなっているとはいえ、まだ無くなってはいないのです。火葬前に写真を撮っているのですから。
見送る前の見納めです。川端はなににもまして「見る」書き手です。さらに言えば、川端は、見て「書く」というよりも、見て「うつす」人だと私は思います。
後述しますが、川端は相手に見られると萎縮します。自分を見ていない相手を見ることで筆がさえる書き手なのです。
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・「いかにも死顔に感情は現われているけれども、その死人はもう感情を持っていない。」
「死顔」と「死人」が一つのセンテンスにつかわれています。顔と身体が同居しているのです。
「死顔」は亡くなって物と化しながらも「感情を現わしている」、いっぽうの「死人」は亡くなった身体として「感情を持っていない」とも読めます。
身体の中で顔は特権的な位置を占め、そのために特権的な意味を持っていると私は思います。遺影はふつう顔を中心に撮られた写真が選ばれます。顔だけの場合が圧倒的に多いようです。
このセンテンスは、死顔を写した写真を目の前に置いての感慨であると同時に、死顔を写すさなかにいだいた自分の気持ちの回想でもあるでしょう。
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・「そう思うと、私にはこの写真が生でも死でもないように見えて来た。生きて眠るかのようにうつってもいる。」
この二文の流れを見てみます。
「生でも死でもないように」が、「うつっていもいる」の「うつる」というひらながの表記にあらわれているように私は感じます。
うつる、写る、映る、移る、遷る。
写、映、移、遷――と書き分けることが可能ですが、これはそう決めたのです。「うつる」という和語に「写、映、移、遷」という漢字を当てたのです。
同時に、大陸から伝わってきた「写、映、移、遷」という漢字に、この島々にもともと話されていたという大和言葉の音を当てたとも言えるでしょう。
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「写、映、移、遷」の書き分けについては、国語辞典や用字用語集に当たれば、そう決めた理屈が例文付きで説明されています。
それはさておき、「写」と「うつ(る)」をこの作品で書き分けている作者が、ここでは「うつ(る)」としていることに、私は反応してしまいます。
ひらがなの「うつる」に、「写る・映る」ではなく「移る」寄りの「うつる」を感じるのです。
「生でも死でもないように」「生きて眠るかのように」という流れに注目しないではいられません。
「AでもBでもないように」という否定から生じる「Cのように」と見えますが、この場合のAとBとCをよく見ると、「AでもBではなく、AでありBである」という感じがしてきます。
生でも死でもなく、生であり死である「生きて眠る」という展開です。
「生きて眠るかのように」の「生きて眠る」は、川端康成の小説ではくり返し出てくる言葉であり、登場人物が示す身振りです。
この身振りに目を注いでみます。
*生きて眠る相手
私は以下の見立てで川端の一連の小説を読むことがあります。
・『雪国』(1948年・完結本出版)
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
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・『眠れる美女』(1961年・出版)
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く、一方的に相手のにおいを嗅ぐ、一方的に相手に触れる、一方的に相手の体内へ自分の体の一部を差し入れる。
このようにして見るとエスカレートしていると感じられます。
以上の見立てについては、拙文「人というよりもヒト(する/される・03)」で主要な作品のタイトルを挙げて詳しく書いているので、よろしければお読みください。
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上の見立てにそって時系列で見ると、『名人』は以下の流れの中に位置づけられます。
・『雪国』(1948年・完結本出版)
・『名人』〈完成版〉(新潮ほか 1951年8月-1954年12月)断続的に4回連載)
・『眠れる美女』(1961年・出版)
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男女を問わず、また生死を問わずに「相手が眠っている」ように「見える」、または「相手が目を閉じている」身振りに注目すると、以下の作品が目につきます。
・『日向』(文藝春秋 1923年11月)【※目の不自由な祖父と暮らして介護する少年。】
・『十六歳の日記』(1925年、執筆1914年)【※同上】
・『死体紹介人』(文藝春秋、近代生活ほか 1929年4月-1930年8月)【※死体の写真。】
・『それを見た人達』(改造 1932年5月)【※同上】
・『夢』(婦人文庫 1947年12月)【※眠る婦人。】
・『雪国』(1948年・完結本出版)【※最終章の落下し失心して横たわる葉子。「その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。」(新潮文庫版p.173) ⇒ 拙文「『雪国』終章の「のびる」時間」】
・『名人』〈完成版〉(新潮ほか 1951年8月-1954年12月)断続的に4回連載)【※名人の死顔の写真。】
・『山の音』(1949年 - 1954年・断続的に雑誌に連載)【※眠る妻。「はっきり手を出して妻の体に触れるのは、もういびきをとめる時くらいかと、信吾は思おうと、底の抜けたようなあわれみを感じた。」(新潮文庫版p.9)】
・『眠れる美女』(1961年・出版)【※眠る(眠らされた)少女たち。】
以上のリストは未整理ですが、目を閉じている相手、眠っている相手、写真にうつっている相手が頻出することがお分かりいただけると思います。もちろん、まだまだあります。
作品全体のテーマにかかわる場合もあれば、作品の細部としてアクセントを加えている場合もあります。
相手の性差と年齢は関係ありません。眠っているかどうか、亡くなっているかどうかも(生死も)、とりわけ大切な要素だとは感じられません。
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相手の目が閉じていること、(相手の目が開いていたとしても)見ている自分を相手が見ていないこと、相手が物を言える状態ではないこと――この三つがきわめて重要な条件である気が私にはします。
さきほども言いましたが、川端は自分が相手に見られていると感じると萎縮します。自分を見ていない相手をじっと見つめることで筆がさえる書き手なのです。
たとえば、『雪国』冒頭の汽車の場面では、島村と娘(葉子)が一時は息のかかるほど接近しながら、声はもちろん視線を交わしません(娘は島村をぜんぜん見ない、さらに言うなら娘が島村を見ているところを省略した筆致ではない、という意味です)。
こうした不自然とも言える「没交渉」を設定しないと、この書き手は見る対象である娘を仔細に描写できないのです。⇒ 「葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)」
原点は、いまで言うヤングケアラーとして、目の不自由な祖父と暮らし、その祖父を日記に綴った少年時代にあると思います。上のリストにもある『日向』と『十六歳の日記』を読むと、自分を見ていない相手をじっと見つめる目が感じられます。
話が広がりすぎたようです。次回は、引用文のつづきを読んでいきます。
*補足
ここまでを読みかえしてみましたが、川端康成の『名人』という作品と他の作品群に見られる、ある傾向に光が当てられているために誤解を招きやすい文章になっていると感じました。
これでは『名人』をお読みになっていない方が、この作品と川端について先入観をいだいてしまいそうです。
もしそういうことが起きるとすれば、私の本意ではありません。『名人』を書いた川端の真意からも外れるでしょう。
バランスを取るために、冒頭の引用文の次に来る段落を書き写します。
(つづく)