マガジンのカバー画像

記事集・F

37
古井由吉関連の連載記事、および緩やかにつながる記事を集めました。
運営しているクリエイター

2023年10月の記事一覧

まばらにまだらに『杳子』を読む(01)

まばらにまだらに『杳子』を読む(01)


見る、見える、見えない

(『杳子』p.8『杳子・妻隠』新潮文庫所収・丸括弧内はルビ、以下同じ)

 古井由吉作『杳子』の冒頭です。

 深い谷底の河原でケルンを見つめる若い女を、下山途中の若い男が見つけて山を下りるようにと手助けする。

 このように簡潔に要約することも可能な『杳子』の「一」という章なのですが、「見つける」「見つめる」とはいっても、男が女をどこでどのように見つけたか、女がどのよ

もっとみる
まばらにまだらに『杳子』を読む(02)

まばらにまだらに『杳子』を読む(02)


あらわれ
 たった一人で登山をして下山する途中に深い谷底にたどり着いた若い女性がいるとします。その人が「小さな岩を積みあげたケルン」を目にしたときに、どんな反応を示すでしょうか。

     *

 ところで、古井由吉作『杳子』の「一」という章では、杳子の見つめるケルンを形容するさいに石という言葉が使われず、「岩」とされています。私はやや不思議に感じるのですが、この点については別の機会に触れるつ

もっとみる
まばらにまだらに『杳子』を読む(03)

まばらにまだらに『杳子』を読む(03)


しる、しるす、しるし
 谷底の河原で杳子が見つめていたのは、人が積んだ「小さな岩の塔」ですが、登山がおこなわれている山にある積み石は、道しるべや目印のようです。ただし、ケルンについて調べてみると山で石を積む行為には批判的な意見も多々あります。

『杳子』では、以下のように「誰かが戯(たわむ)れに積んでいった」という断定口調の形容がありますが、アイロニーなのかもしれません。

(『杳子』pp.8-

もっとみる
まばらにまだらに『杳子』を読む(04)

まばらにまだらに『杳子』を読む(04)


しるしという「印」、しるしという「物」
『杳子』は一貫して「彼」の視点から記述されている小説であり、「彼」以外の人の視点(思いや発言)は伝聞として見事なくらいきちんと書き分けられています。古井は伝聞の処理がじつに巧みな書き手なのです。

 以下に引用するのは、谷底での出会いののちに、杳子が「彼」に語った話です。

(『杳子』p.19『杳子・妻隠』新潮文庫所収、以下同じ)

 杳子の語った話をまと

もっとみる
まばらにまだらに『杳子』を読む(05)

まばらにまだらに『杳子』を読む(05)


ともにふれる、ともぶれ
 和語に漢字を当てる。文字がなかったらしいこの島々の言葉の音に、大陸から伝わったと言われる文字を当てて分けて、その文字列をながめる。

 すると、意味が重なっているさまが視覚的に迫ってきて(これが文字の力のすごさです)、意味をなす言葉の身振りがシンクロ(共振、共鳴、ともぶれ)しているように感じられます。

 私の場合には、小説を読みながら、頭のなかで漢字分けによる感じ分け

もっとみる
まばらにまだらに『杳子』を読む(06)

まばらにまだらに『杳子』を読む(06)


たつ、たもつ、もつ
 古井由吉の『杳子』を読んだ人が共依存という言葉を口にするのを何度か聞いた覚えがあります。

 依存、たよる、もたれる、よりかかる。
 共依存、たよりあう、もたれあう、よりかかりあう。

 たしかに、この小説全体にそうした身振りが満ちています。そして、その身振りの象徴として、作品の冒頭で杳子の目に映ったケルンがあるのではないか。私にはそう思えてなりません。

     *

もっとみる
まばらにまだらに『杳子』を読む(07)

まばらにまだらに『杳子』を読む(07)


反復され変奏される身振り
 あるひとつの作品のなかで、または複数の作品のあいだで、ある言葉や身振りや光景が、わずかに移りかわりながら、くり返されることがあります。

 ともにふれる、ともぶれ、共振。
 ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる。ぶれる。ゆれる。
 もたれあう、つりあう、釣りあう、吊りあう、釣り合い・吊り合い。

 今回は、以上の言葉の身振りとイメージが、『杳子』という言葉で書かれた

もっとみる