まばらにまだらに『杳子』を読む(04)
しるしという「印」、しるしという「物」
『杳子』は一貫して「彼」の視点から記述されている小説であり、「彼」以外の人の視点(思いや発言)は伝聞として見事なくらいきちんと書き分けられています。古井は伝聞の処理がじつに巧みな書き手なのです。
以下に引用するのは、谷底での出会いののちに、杳子が「彼」に語った話です。
(『杳子』p.19『杳子・妻隠』新潮文庫所収、以下同じ)
杳子の語った話をまともに取るなら、どいうやら彼女は、人のつくったしるし、あるいは人のいたしるしとしてあるケルンをしるしとして見ていなかったと解せます。
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文字を文字として見ていないと言えばわかりやすいかもしれません。日本語でつかわれていて慣れ親しんでいる漢字やひらがなやカタカナやローマ字が、ふと文字ではないように見える瞬間については、ゲシュタルト崩壊という言葉で説明されることがあります。
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慣れ親しんでいる文字、当たり前のものとして日々つかっている文字が文字に見えない瞬間。
たくさんの人たちが文字としてつかっているはずの知らない言語の文字を見てぎょっとする瞬間。
模様かデザインだと思っていたものが、じつは、はるか遠い国の、またははるか遠い昔につかわれていた文字だと知らされて、思わず「これが文字なの?」と二度見してしまう瞬間。
「あなたの目の前に書いてあるのは、あなたの名前よ」、「それって、じつは『危険!』って意味の絵文字なの」、「さっきからあの人のしている指の仕草は、『助けてください』のジェスチャーなんだって」、「そこに座っちゃ駄目、そこはお墓なんだから」
「S君、そこに座っちゃ駄目、そこは上座」、「ヨウコさん、さっきからそこにずーっと座り込んで、じーっと何を見ているの? それ、ケルンだよ」
文字、話し言葉(音声)、表情、身振り、記号・標識、位置関係――こうしたもの全部が広い意味での「しるし」だと私は思います。
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しるしがしるしに見えない。しるしとして目にとまらない。しるしとして目に映らない。しるしなのに見過ごしている。しるしとは違った物や形として見ていた。しるしを単なる物として見ていた。
しるしという「印」、しるしという「物」。
何らかのしるしが印ではなく物(または形)に見えるという瞬間は意外とあるのではないでしょうか。
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とはいえ、『杳子』の冒頭で杳子がおちいっている事態はただごとではない気がします。不気味だし不思議だし不可解なのです。
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いずれにせよ、「しるし・印」と「もの・物」はさまざまな連想をもたらしてくれます。
印、記述、筆記、印象、印章、表象、マーク、烙印、レッテル、サイン、シグナル、信号、記号、シンボル、サンボリスム、「象徴の森」(ボードレール)、『シンボル形式の哲学』(カッシーラー)、暗号としての世界、隠喩としての世界、神の刻印。
物、物体、物質、事物、オブジェ、対象、実物、本物、偽物、贋物、『言葉と物』(ミシェル・フーコー)、物神、フェティッシュ、フェティシズム、物心、物欲、唯物論。
物がしるしであったり、しるしが物であったりする。しるしの領域と物の領域は重なっているというか、見方によってどっちにも「見える」し、どっちでも「ある」し、どっちにも「なる」気がしてきました。
印の領域、物の領域
文字に話を限れば、文字とかかわるとか、文字をつかうさいには、文字というしるしの「印」(しるしとしての意味や意図やメッセージ)の領域と「物」(物体・物質としての形や姿や音)の領域のあいだを、人は行ったり来たりしているのではないでしょうか。
猫
ねこ
ネコ
猫、ねこ、ネコという文字の姿――点と線からなる形――に見入っていると、猫、ねこ、ネコが指ししめすものが消えます。
それに対し、猫、ねこ、ネコが指ししめすものを思いうかべていると、猫、ねこ、ネコという文字の形と姿が意識されません。
意識していたら文章が読めないからです。
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そもそも、文字は見たり眺めたりするものとしてよりも(その形を見たり眺めたりする習字や書道もありますが)、むしろ読むためのもの(ものというよりも方法と言うべきでしょう)として、人は長い時間をかけて習得するものだからです。
文字を文字(しるし)として読むのは学習の成果、あるいは努力のたまものと言えます。話し言葉の習得にくらべ、人が文字の読み書きに費やす時間と労力は、とほうもなく長いし大きなものです。
世界には母語を話せても読み書きできない人が想像する以上に多くいると聞きます。老人である私はいまも読み書きに苦労していますし、いまだに習得中だという意識が強いです。
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話を文字から広義のしるしにひろげます。
ケルンをじっと見つめている杳子は、「しるし」の「印」(しるしとしての意味やイメージやメッセージ)から離れて、「しるし」の「物」(物体・物質としての形や姿や音)に近い領域にいたのかもしれません。
上の引用文につづく箇所を見てみましょう。
ケルンの形とその様子は杳子にはちゃんと見えているのです。数までかぞえています(なお、古井由吉の作品では、くっきりと輪郭が明確なほどに見えているのに――古井がよく書く「明視(感)」のことです――必ずしも見えていない状況がよく出てきます)。
これにつづいて興味深い言葉――あくまでも視点的人物である「彼」の受けた伝聞ですが(ようするに又聞きです)――を杳子は口にしたようなのです。
「無意味さ」という言葉に注目しないではいられません。彼女が見ているものは、もはやしるしとは言えないと考えられます。
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なお、上で述べたように、くっきりと見えているのに必ずしも見えていない「明視感」は、古井の諸作品においてくり返し出る言葉であり、テーマでもあり、出てくるたびに変奏されてもいます。
キーワードは「輪郭」と「明」なのですが、はっきりくっきりして明るいながらも、不穏で危うく脆(もろ)い静寂に満ちた光景として描かれるのが特徴です。
明るさに反して決してポジティブではないという、この妙な明視はこの作品でも出てきますが、いつか古井の複数の作品を横断する形で扱ってみたいと思います。
古井の作品を読むときのおもしろさの一つは、読んでいて覚える既視感なのです。言葉の身振りとしては、反復と変奏としてあらわれます。
この書き方をオブセッションとかマンネリズムという言葉で評する向きもあるようですが、私は古井の作品に頻出する既視感が好きです。既視感を味わいために読んでいます。
意味、無意味
話をもどします。
ケルンをじっと見つめている杳子は、「しるし」の「印」(意味や意図やメッセージ)を受け取ろうとする領域から離れて、「しるし」の「物」(物体・物質としての形や姿や音)を感じとろうとする領域にいたのかもしれません。
それとは逆に、「彼」は、「物(自然物)」の「物」から離れて、「物(自然物)」に「印」(記憶やイメージ、ようするに意味)を感じとってしまう領域にいたのかもしれない。そんなふうに感じました。
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岩という自然物に対する「彼」の反応を見てみましょう。
「彼」はどうやら、岩に異和や違和を覚えているようです。「異和感」は、古井由吉がその作家活動の初期からもちいてきた表記です。
いわ、岩、違和、違和、移和、意輪。
いわが意味をなして移りかわります。けっして無意味ではなく――ナンセンスではあっても――、意味が連鎖して輪をえがく世界なのです。
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物にしるしを見る「彼」、しるしに物を見る杳子――。
意味の領域にいる「彼」、無意味の領域に落ちこんでしまった杳子――。
恥ずかしいほど嘘くさい単純化と図式化をするとこうなりますが、この恥ずかしさと嘘くささを噛みしめ読みつづけようと思います。
(つづく)