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俺には困っていることがある。 まあ大体毎日何かに困っているわけではあるが、困っていることは増えることがあっても今のところ減ることはまあない。

困ったことがある。

困っていることというのはご主人のことだ。
ご主人とは書家のおっさんである。

自己紹介をせねばならないとすれば、私は一般には筆と呼ばれている。
ご主人に名前を付けてもらってはいないから固有名詞で呼ばれたことはない。

猫ならタマ、犬ならパトラッシュと相場は決まっているだろうが、
筆には相場の名前はない。残念ながら、ない。

書家と筆は大事なパートナー。
ツーと言えばカーの間柄である。そのはずである。

私は長い間ご主人のどんな要求にも応えてきた自負がある。
強く、柔らかく、荒々しく、軽やかに、しなやかに、伸びやかに、
あらゆる線を生み出してきた。

楷書、行書、草書、隷書、木簡、金文、篆書に仮名。
ご主人は何でも私一本でこなしてきたし、私はそれに常に応えてきた。

諺に「弘法筆を選ばず」とあり、弘法様は選び抜いた一本の筆でどんな書も書かれたと言う(そうそう「弘法様はどんな筆でも関係なくいい字を書いた」というのは誤りだから勘違いのないようにお願いしますね)。

いや、ご主人はまさにそれ。私一本で何でも書く。
ただ違うのは、貧乏で色んな筆が買えないから私一本しか使えない点である。プロゴルファー猿的といえば、わかりやすいのか、わかりにくいのか。

そのご主人様がボケてきた。
脳が腐って指令がうまくできなくなっているのか、手の自動運転機能に不具合があるのか、明らかな間違いがチラホラ出てきたのだ。

人生100年とすればそんなに歳でもなかろうに、である。哀れである。

そこは山ですよ、山。亡ではありませんよ。
と何回も言っているのに、どうして亡を書いてしまうのか。

どうやら俺の声も聞こえなくなってしまったようだ。
俺の力ではどうしようもない。

昔はこんなことなかったのになあ。


俺には困っていることがある。

まあ大体毎日何かに困っているわけではあるが、そのうちの一つといったところだ。困っていることは増えることがあっても今のところ減ることはまあない。

さて困っているのは筆のことだ。
筆といえば大事なパートナーである。
パートナーと言えば信頼第一だ。

しかし主人の俺は「綱引」と書こうとしているのに、
当の筆は「網引」と動いている。

筆がそう動いているのだ。
俺の力ではどうしようもない。

一応俺も本人に聞いては見た。
だがどこで覚えてきたのかずっと黙りを決め込んでいる。
黙秘権とかドラマの見すぎなんだよ。何か喋ろよ。
かつ丼食わせるまで喋らないってか。ねえよ、かつ丼なんか。
ここは海外だぞ、馬鹿野郎、どこにでもすぐに日本食があると思うなよ。

昔はこんなことなかったのになあ。

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