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「雲が多めな晴れ」か「晴れ寄りの曇り」かは明確にどちらかに決められるべきである。

昨日のチャツウッド地方、雲が多めな晴れなのか、晴れ寄りの曇りなのか、とちらとも定義しにくい空模様だった。

そんなのどっちでもいいじゃないかという意見の方もおられると思うが、果たしてそうだろうか。
そういう曖昧な考えは自らを窮地に追い込むことになるやもしれぬ(ならないかもしれぬ)。

しかしながら「私は窮地を窮地と思はぬ。意志は石より固く持っている」という覚悟のお方であればもちろんそれもよし。当然それは尊重されるべきだと考える。

さて「雲が多めな晴れ」の場合だが、「雲が多めだ」という説明が「晴れ」という名詞の上に乗っかっている形になっている。つまり、何はともあれ「晴れ」なのである。

それに対して「晴れ寄りの曇り」の場合は「晴れ寄りの」という説明が「曇り」に掛かっている状態であり、結局のところは「曇り」であることが明白だ。

両者は「晴れ」と「曇り」という全く違う事象なのだ。本当にどっちでもいいなどと言えるのだろうか。

毎度毎度同じ例であれなんだが、これが一番好みなので了承して欲しい。
毎度おなじみ「カレー味のウ〇コ」と「ウ〇コ味のカレー」である。これをどっちでもいいじゃないかと果たして言えるだろうか。

味はどうであれ「カレー」という食べ物として認知されている物と、かたや味はどうあれ誰かの肛門から出た排せつ物だ。

曖昧さを嫌う俺は考えるまでもなくカレーを選択する。「ウ〇コ味」というのがどんな味なのか分からないが、そういうことではなく食品を食う。恐ろしいことに「えええええっ」という反対意見が出るのだが正気だろうか。

食品だろうがそうでなかろうが、自分が何を食べるかは個人の自由であり、当然尊重されるべきだという意見は理解できる。だが現実的だろうか?

「私はカレー味のウ〇コを食いたいのだ。」という意見ももちろん尊重しなければならない、と正義感ぶって言うのは簡単だ。しかし俺からしてみれば正気とは思えぬし、これを窮地と言わずして何を窮地と言うのか分からない。石より硬い意志でなのであれば、排泄物を口にすることも厭わないのかもしれないが、本当にそんなものを食うのか?

ということで「雲が多めな晴れ」か「晴れ寄りの曇り」かは明確にどちらかに決められるべきである。ただ、カレー味のウ〇コを食べる人たちだけはその限りでないと、ここでは落着しておく。

おいおい、お前は一体何を言っているのだ?とお考えの方。
それは俺も詳しく聞きたいほどである。

腹は減ったし、眠たいし、でこんなことになっている。

写真はチャツのRSLの掃除のあとの濡れてるぜのサイン。
これ自体がずるんとすべった感じになっていて、クスッという小さい笑いを誘う。床はべちゃべちゃ。

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