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ある日の午後9時。俺は開催中の日本映画祭を訪れ、夕食をとってから帰宅の途についていた。

ある日の午後9時。タウンホール駅のホーム。

俺はシティで開催中のシドニー日本映画祭を訪れ、夕食をとってから帰宅の途についていた。映画は面白かったが、夕食はさんざんだった。金を支払って不味いものを食べたのは久しぶりだった。それが日本人経営のジャパレスだったからなおのこと。あんなに不味い天ぷらなんかあり得ない。あまりにも不味いので、口から何度か良くない言葉がこぼれてしまった。もちろん周りに人はいなかったけど、店の人には聞こえていてくれても構わなかった。

そんなことがあったから久しぶりのいい気分が台無しの状態で、チャツウッド方面に向かう電車を待っていた。

壁にもたれている俺の左となり、30センチくらいの距離のところに若いカップルがやってきた。日本語で話している。恐らくワーホリだろう。
俺はすぐ真横にいるのだが気にならないのか、それとも日本人とは思ってないのか、素足をローファーに突っ込んだちょっとスカシめの背の高い男はめちゃめっちゃデカイ声でしゃべる。女の方はちょっとへちゃっしていて膝をクネクネしながら語尾を長めの喋り方をする。

話の内容はこう。
どうやら女は豪州に来たばかり。男もシドニー在住はそんなにに長くないのだけれど、どういうところに住めばいいかを女が男に質問し、男がいい格好しいで伝授してあげようというわけだ。

男によると英語ができればチャイナタウンがおすすめらしい。その理由は俺には全然わからない。英語ができると中国人と仲良くなってキッレキレのチャイナドレスを着させられるとか、漁船に乗っけてもらって日本領海までアカ珊瑚獲りに連れて行ってもらえるとか、なにか特典があるのだろう。そこは詳しく触れられていない。

女が英語はしゃべれないと言うと、それでは手本を聞かせようとばかりに、男は一人で架空の電話英会話を始めた。地声がデカイばかりか、かすれて高い。キング・オブ・コメディの不祥事を起こしていない方のようだといえば分かりやすいのか分かりにくいのか。

男の英語はハローからはじまり名を名乗る。
どうやらシェアメート募集の広告をみて電話しているという設定のようで、電話の相手は日本人ではない広告主である。

男の口からは割とスムースに言葉が出てくるが、そこで紡がれる英語の文章は語順がユニークだったり、時制がユニークだったり、前置詞や冠詞がユニークだったり、発音がユニークだったりでなかなか興味深い。だが基本的にそんなことは問題ではない。通じれば何だっていいのだ。ただ周囲にオージーも大勢いるというのにこのユニークな一人小芝居、彼の勇気を大いに称えたい。(そしてオージーの皆さんが彼だけを見て「日本人」を定義してしまうことがないように祈りたい。)

会話?は進む。

部屋には他にどこの国の人が住んでいるのかとか、何人でシェアしているのかとかを男が質問するのだが、どうやら架空の電話の相手も返答をしている設定のようで、彼はオーイエイ 、オ~イエイ、と微妙にイントネーションを変えながら相づちを打つ。

この男恐るべし、である。
やつの小芝居は何故かどんどんエスカレートしていき、俺は天ぷらが不味かったことなど既にどうでもよくなって男のパフォーマンスに惹かれていく。

真横にいる俺は男の姿を見るために首を90度曲げることはできない。
「聞いている」ことを気付かせるわけにはいかないのである。こんなに面白いライブコントをそんなことで止められてはかなわない。
俺は正面を向いたまま、黒眼を左の目尻を突き破るかもしれないくらいに左に寄せて男女の様子を観察した。実際目尻も伸びたろう。

いや、冷静になって客観的に見てみれば、その不思議なカップルはもとより、俺の方も目力イカついほぼ白目のおっさんの電車待ちである。
もし俺の顔がカメラで撮影されていたらそれはそれで怪奇であろう。

さて話を男に戻そう。

そろそろ会話も佳境に入る。自分はその部屋をいつ見に行けるのだろうかと、男が広告主に質問をした。そうしておいて、フーフン、アーハンなんつって余裕で答えを聞いている。
いや、正確には聞いている小芝居を続けている。
何度も言うが、これは公共の駅のプラットホームでの妄想一人芝居なのだ。

ここで男が発した言葉は、今年に俺の鼓膜を揺らした言葉の中で一番衝撃的だった。吉本新喜劇だったらホームにいる人全員が一人残らずずっこけなくちゃいけない場面である。実際俺の右足はちょっとズルってなっちゃった。

「I can't go. I have job.」

おい男!小芝居、設定細かすぎ!!!!

文法云々はこの際無視し、とにかく言いたいことは、「仕事があるから(広告主が提案した日時には)いけない。」ということである(ちなみにヤツのcan'tはアメリカ風発音)。

しかしよく考えてほしい。これは単にシェアルームへのアポイントをとる電話の会話例のはずである。日時を聞いたら納得して電話を切りゃあいいじゃねえか。お前のバイトの日なんて知らねえよ。そんな匙加減いらねえんだよ。小芝居、どこまで続くんだよ。
くどいようだが、実際に電話しているわけじゃなく、男が一人で妄想でしゃべってるだけなのだ。

「天才か…」
俺の脳裏にそんな言葉が浮かんだとき、ホームに電車が入ってきた。
俺はその男女の真後ろに席を取るつもりだったが、そこまでの運は俺には無いようだった。

「すべらない話」でも通用する話じゃないかと強く思った。

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