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誕生日に考える 生と死

誕生日を手放しで喜べなくなったのはいつからだろう?プレゼントが貰えなくなった時か?老いを感じ始めた時か?
近年は誕生日を祝われる事に少し抵抗がある。
産まれたくなかったなんて思ってはいないけれど、祝われるほどの喜ぶべきことでもないと思ってしまう。


親ガチャだとか反出生主義だとか最悪な考え方を平気で他人に言ってしまう人も最近はかなり増えてきた気がする。考えるのは勝手だけど、それを口にするのはなんか違う。自分の親とか祖先とかに申し訳ないと1ミリも思わないのだろうか。産まれてから今まで1度も楽しかったこととか喜べることとかが一切ない人間はそうそういないと思っているのだけど、そうでもないんだろうか。




死生観について、いつか何かの形で公開しようと思っていた。
生命の誕生を祝う日である誕生日にこれを公開しようと思ったのは、先日 さユりのbirthday songを聴いたからだ。

選ばれなかった命を
弔うことすら出来ないままで
私は今日も白々しく
生きている

birthday song / さユり

自分は産まれることのなかった命の上に生きている。
それが当たり前になっていて悲しむこともない。
産まれて、生きて、生きて、生きて、死ぬ。
それが当たり前になっている。

その上で他の生物を殺して食べている。
なんだか人間の罪深さみたいなものを感じてしまう。
平気で動物の肉を食べているのに動物を殺している事実からは逃げている人、動物の肉は食べないけど植物は食べてもいいという謎の理屈を主張する人。
正直理解に苦しむ。
人間は他の生物を食べて生きてるんだ。
その事実だけは間違いないんだ。
その事実からは逃げてはいけない。

(関係ないけど、この曲が埋もれてしまっている現実が悲しい。もっと評価されてくれ。もっと再生されてくれ。)




記事を書いていくうちに下記の曲についてもふと思い出したので書こうと思う。

自分が死んでもどうでもよくて
それでも周りに生きて欲しくて

命に嫌われている。 /  カンザキイオリ

現代人が抱える希死念慮を上手く表現している歌詞だと思う。
自分もこう考えてしまうことが多い。
なぜか自分よりも周りを優先してしまって、幸せを願っているのに、自分はその中に居ない。
自分には幸せになる資格などないと心のどこかで思っている。良くないとは思いつつも思ってしまう。


僕らは どうせ 拾った命だ

季節は次々死んでいく / amazarashi

生命は偶然の産物だ。
僕らは偶然に産まれてきて必然に死ぬ。
なんとも儚い生き物だ。


産まれてきた ただそれだけで 愛されてる証

放たれる / Mr.Children

生命の誕生をものすごくポジティブに捉えると愛の結晶なんだろうな。と思わせてくれる歌詞。

これは個人の主張だけど、綺麗事も偽善も必要悪だと思う。綺麗事と偽善がないと人には絶望しか残らない。僕はそう思っている。だからMr.Childrenが好きなんだと思う。



ここで考えるのを辞めようと思う。

言うまでもなく、この問に答えはない。
あるとしても、今は知らなくていい。
知ってしまったら生きる理由が減ってしまう。

気が向いたら続きを書きます。

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