まずは自己分析から始めよう。

このタイトルを見て、いやな記憶が蘇った人が何人いるだろうか。

バブル景気のウハウハを知らない平成世代の若者たちは、就活において自分を周りと差別化するために、「自己分析」という謎の工程を踏まされる。

私もそんな就活生の一人として、「自己分析」を始めたばかりだ。自己分析の目的は大きく2つだと理解している。一つは「自分の本当にやりたいこと・なりたい像は何なのか」という問いに徹底的に向きあうこと。もう非乙は、「自分が社会・会社に対して提供できる価値」を見つけること。

自己分析の重要性は多くの本で紹介されているのでいうまでもないが、実際に徹底的に自分のやりたいことを発見・実現できている人は少ない。

僕は、冷やかしで一度就活をしていたことがあるが、周りのリクルートスーツの人たちの中に自己分析の成果が出ていると感じられる猛者はいなかった。

みんな、墓穴を掘らないように、悪目立ちしないように、卒のないように、ふるまって画一的なロボットのようだった。こんな中で、人事や採用の人たちはどのようにしてよい人材を見分けるというのだろうか(笑)

そして、こんなバカみたいなプロセスに一喜一憂して、時には精神を病む人が出るという日本の状況は馬鹿らしくて仕方がない。

圧倒的売り手市場で、企業から会食やスキー旅行に学生を連れていき、人材を囲っていたあの頃の自惚れ先進国はどこに行ったのだろう。

企業に就職するということは、その企業の方針に身をゆだねるということである以上、100%自分の願いがかなえられる訳がない。「就職しよう」と決意した時点で妥協の始まりなのだから、何を嘆く必要があろう。

本当にやりたいことが明確で、それが社会から求められてることならば、さっさと起業すればいい。やりたいことが金にならないと分かっているなら、バイトでも副業でもいいから食いつなぎながらやりたいことをやればいい。

やりたいことがある人に限って、環境的にやれないという場合もある。貧困や、親の介護などがそうである。そのような場合は、大変残念だが、救いようがない。気持ちの持ちようや時間の使いかたで少しはどうにかなるが、そんなことでは問題は解決しない。老老介護で親を殺してしまうや、シングルマザーが心身疲弊して飛ぶなどの事例は、望ましくはないが理由は分からないでもない。このような人々に対して、意思の弱さや努力不足などを指摘する人は、地獄に落ちればいい。

自己分析の話からかなりそれてしまったように思われるが、実はこれが本題だ。今回の本題は「日本人もそろそろ自分たちの国民としての自己分析をしてみないか?」ということについてだ。

日本は先進国ですか?

おそらく、ほとんどの人々はそう答えるだろう。GDPは世界第3位だし、産業もエンターテイメントも発達している。G7に入っているし、軍事力も世界屈指だ。

そう言っていられるのもいつまでであろうか?

ここ30年日本の物価は横ばいだ。GDPの成長率も他のOECDの国々と比べると低い。

大学を卒業しても初任給が20万円なんて馬鹿げている(日本の学生が勉強しない話は別として)。

一方で生活物資(特に食品)は高価で、食べ物も農薬だらけ、危険物質だらけの国である。砂糖と牛乳と汚染された小麦にまみれた食生活で生活習慣病は増えてしまった。スタバの新作のために並び、低品質の生クリームを口いっぱいにほおばるかわいい女子大生は、自傷行為でもしているのだろうかとさえ思う。

廃れたのは経済・物質的な面だけではない。日本人の心も蝕まれてしまった。

戦後、GHQを主導に日本には様々なエンターテイメントが作られた。ジャニーズ事務所や吉本興業はその典型である。これらは、日本人を政治的関心からそらすために作られた装置である(僕もアイドルや芸人さんは大好きなので彼ら自体や芸能という文化そのものを否定するつもりはない)。

これらは、3S政策と呼ばれる戦後最大のソフトパワーの行使によるものだ。3SのSはスポーツ(Sports)、スクリーン(Screen)、そしてセックス(Sex)だ。第二次世界大戦後の世界では、この3つのSを利用して世界中で政治的関心を低下が図られた。プロ野球などのスポーツ観戦に熱狂するもの、映画やドラマ、テレビなどのスクリーンでのできごとに一喜一憂し、芸能人のスキャンダルに振り回されるもの、そして、ポルノ産業や性風俗、キャバクラなどの水商売に現を抜かすもの。これらは、3Sが上手くいった証拠なのである。

もちろん、この枠組みを使って生まれた芸能文化はものすごいものだ。我々の創造性に限界はないということを教えてくれる最高の材料である。

だがどうだろう、それを理由に政治への関心が薄らいではないだろうか。

実は、私もほとんど政治に興味がない。というよりも、興味を引くような政治家はいないし、この現状を政治で変えられると思っているほど希望に満ち溢れているわけでもないといったほうが正しい。

もはや国民の手の届かないところにまで去ってしまった政治は暴走を始める。我々の国土や企業、労働力は外国資本に売り飛ばされ、奴隷となり果てる未来が待っている。

日本国民のほとんどが派遣社員同様の地位にまで成り下がって、外国の上司の言うことを不条理な環境で一生聞き続ける時代が待っているだろう。

幕府に逆らえず、重い年貢に苦しむ江戸時代の農民を支配していた封建制度の時代に戻ってしまうのだろうか。

戦後70年間の平和は、長い歴史の帯の中では束の間の休息としか呼べないほど短く終わってしまうのだろうか。

移民が増え、街がスラムと化した東京にいられなくなった一部の日本人は世界中にちりばめられ、ジャパニーズディアスポラという事態を迎えてしまうのだろうか。それとも、自分たちの領土を求め国境をさまようクルド人のような境遇に置かれてしまうのだろうか。

リニアリニアモーターカーが完成しても、乗っているのは日本人ではないかもしれない。

今こそ、自分たちが国際的にはどのような立ち場にあり、どのような国として見られているのか、「自己分析」をしなければならない。


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