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From Scratch ー「0から」つくる創造の方法論
ここのところ、noteを書く目的をなんとなく取り違えていたかもなあと感じる。面白いことがあれば、それをとりとめなく書いてみるのが楽しい。
このnoteでは、どちらかというと「オリジナル」の表現を目指す人向けに使える道具を、読書猿さんの『アイデア大全』を基軸にまとめてみた。100%オリジナルの物はそうそう存在はしない。しかし「独創」の概念を掲げた任天堂のような会社が、第一線で活躍し続けているのも事実である。
自分だけのオリジナルというものは、最初は弱弱しいものとしてしか出てこないときがある。しかし、いくらダメだと思っても、そのアイデアをつぶさないためには、色んな先人の教えを見て見るのもよい。
いつものように、このnoteも全てを通読するよりも気になったタイトルの部分をつまみ食いするのをおすすめする。おもちゃ箱のような文章である。にじさんじから動機を得ているため、にじさんじへの言及が多いが、なるべく他ジャンルに興味のある方でも読めるよう心掛ける。
このnoteをかいた動機 ーーにじさんじから
私は、にじさんじといういま流行しているVirtual YouTuberの事務所を応援している。ただ、始まって三年にも満たない企業である故、この先大丈夫かな?とふと感じたりすることがある。
そして今までいろんなnoteで検討した結果、Vtuberの方がそれぞれの個性の出し方で苦労していることに気づいた。特ににじさんじの場合、にじさんじ×ゲーム、にじさんじ×歌のように別の人がクリエイトしたものにひっつく形で支持を伸ばしている。その運営会社の名前通り「いちから」(すでにあるものとの掛け算で)ものを作っているのだ。これ自体は悪いことでもなんでもない。何より、にじさんじの方々はそれぞれのゲームや好きな歌への愛を強く感じる。
しかし、海外を少し覗いてみると、1億人のチャンネル登録者数を持っているPewDiePie氏がVtuberとして活動を始める(賛否激しいが)など、少しずつVtuberのムーブメントは外部にでていっている。おそらく、外部の強力な資金源のある集団が参入すれば、一気にファン層を持っていかれることもある。故に、しっかり「自分たちはこういう集団です」とわかるオリジナルの芯が必要となるときが来そうである。
…無駄に杞憂をして分析を繰り返すくらいなら、せめて私は、有用な情報をかき集めて、見た人が何か新しいものを作り、個性を発揮できる道具を置いておくべきだろう。計算ばかりで、心を捨ててはいけない。
雪城さんのnoteを読んで、相手も(Vtuberとはいえ)人間なんだと思いなおしたこと、そして月ノ美兎さんの言葉に動かされてこの記事を書くことになった。
みなさん、楽しそうな場所を見つけたらおすそわけをしてください。一緒に人生やりましょう…。一緒に人生をね、神ゲーにしようかなと、思います。 月ノ美兎 2020/03/01 専門家の元で食事を4日間抜いてみた
「つくる」の意味
創 ソウ(サウ)・つくる きず・はじめる ①きずができる。きずをつける。刃物でうけたきず。 ②物事をはじめる。はじめてつくる
「創」という言葉は、元々「キズ」という意味がある。医学の用語にも体の皮膚に傷がついた状態を「創傷」と呼ぶことがある。一方で「Create」はラテン語の「Creare」(産む、作り出す)が語源である。
日本のクリエイティブに対する向き合い方がどこか、身を削りがちなのは、版画のように身に傷をつけるようなニュアンスがその言葉にあるからかもしれない。
5年前に死去したDavid Bowieは遺作「Lazarus」で「私は誰にも盗むことのできない傷を手に入れた」と歌っている。これほど自分の人生を虚構として作りこんで、亡くなった人を私は知らない。
0からの創造は、あくまで私たちが何か材料を基にして物を作っているため、嘘にすぎないかもしれない。それでもこの宇宙の歴史のどこかに引っかき傷でもつけれたら、それはすごいことじゃないだろうか。
創造は、特別なことじゃない
これまでにない新しい考え(アイデア)を必要としている人は、できるのはわずかであったとしても現状を、大げさに言えば世界を変える必要に迫られている。そのために世界に対する自身のアプローチを変える必要にも直面している。 読書猿『アイデア大全』(003)
アイデアが必要な時、それは人が困難に出くわしたときである。しかもその困難が困難かどうかは自分自身が決める。ただ「退屈だから」という理由で庭に存在しない犬の犬小屋を作ってみてもいい。
そういや犬小屋じゃなくて、本の整理しなきゃ…(汗)
弱弱しくても、くだらなくても生まれたものを信じること
アイデア大全では、『フォーカシング』と呼ばれる技法が紹介されている。
①楽な姿勢で座り、目を閉じて、音に耳をすませる ②右足、左足、右手、左手、頭、両肩、お腹の順番に意識を集中する ③体の中に違和感を感じたら、その何かにしっくりくる名前を付ける ④その何かに質問をする(取り組みたい課題について、自分の気持ちの変化に適宜名前をつけながら) ⑤十分な感覚の変化をもらったら、「そろそろ終わっていいですか?」と聞いてみる (アイデア大全「フォーカシング」の章を要約)
これは、自分自身の心のもやもやに名前を付けることによって、行き詰まりの原因を形に出し、自らの感覚と対話しながら納得する形で問題の解決の仕方を探る方法である。Bump Of Chickenはよく寓話などを用いて心の動きを表現するが、その端的なものが「かさぶたぶたぶ」である。
実は、Vtuberの試みはこのようなある種の「人形遊び」に非常に親和性が高いのではないかと私は考えている。
能や博多にわかをはじめ、仮面をつけて違う自分を演じる芸能は古来より日本に存在していた。仮面そのものはただの物体だが、そこには「霊魂」がやどるともされていた。それは、現代風に考え直すとこのフォーカシングの作業だったと考えてもよい。すると、Vtuberの営みが一見くだらなく見えても、実は100年以上続いた伝統芸能に近いものにも見えてくる。ごっこ遊びは、全人類の遊びの根源なのかもしれない。
(先ほど、にじFesの健屋さんの芝居のお話にもごっこ遊びのことがでていて、ニッコリしました)
問題があるところに創造は起こる
吃音症だったEd Sheeranが、ラッパーのEminemに出会い、早口の中にまるでラップのように早口の言葉であってもメロディを奏でることに気づく。そして彼は、発音が必ずしもうまくないことを逆手にとり、まるで吃音症の先駆者Scatman Johnのように早口の曲を次々と書くことになる。そしてその中の一曲が世界的大ヒットとなったShape of youである。
障害を持った人が必ずしも不幸せではないと歌ったのはミスターチルドレンだった。そこに制約があるのならば、その制約を逆手に取ることができる方法を探るのは、創造の第一歩である。
流行と創造を区別する
小説の世界では「新しさ」をめぐって小説家・金井美恵子さんと佐々木敦さんの間で論争が起こったことがある。
金井さんの考えはこうだ。いくら時代が進んでも小説は新しくならなかった。しかし、フランスの小説家フローベールのように、読み返せば何度でも「新しさ」を感じられるような小説があり、それにはあらゆる二次創作が存在している。小説は「書く」以前に何か別のものを「読む」行為がなければ成立しない。
金井さんの立場は「0からの創作は存在しない」という立場に近い。そこに佐々木敦さんは「それは、流行を追うことを高く持ち上げたバブル時代への反抗的な立ち位置であり、我々はそれでも、新しく出版される本の中に(ベタであっても、過去の反復に見えても)新しさを探すしかないのではないか」と述べた。
この二人の立場がどっちが正しいかは、歴史的な見方で変わってくるし、個々人が判断することだろう。ただし、冒頭の星野源の言葉にもあるように、ミスターチルドレンの『Tommorrow Never Knows』や斉藤和義の『歩いて帰ろう』のように、流行の外にある自分たちの人生を見つめた歌が、多くの人の心を惹きつける時もあることは、知られていてよい。
ノートを取る 月ノ美兎レーニン説(?)
ベートーベンは650の曲を作り、ピカソは数万の作品を生み、エジソンは1300もの発明をした。エジソンのアイデアノートの数は3500冊に及ぶ。だがその中で評価されたのはごく僅か。
— LifehackFactory (@LifehackFactory) July 13, 2017
圧倒的な量からしか質は生まれない。
小さな実験と失敗を大量に繰り返した結果、天才は天才になった。 https://t.co/jHDhOixr4d
そもそも委員長ってChairpersonとかいう強そうな意味だから、レーニンと並べてみました。
これまでのnoteでも紹介したように月ノ美兎さんは、「やりたいことリスト」を書いていたり、ノートの空白に友達のライバーさんの絵を描いていた。そしてついに本を出版することにもなった。
実は、月ノさんと同じく、ノートの隙間に謎めいた文言を書き連ねることで、自らの思考を研ぎ澄ませた歴史上の人物がいる。ロシア革命の指導者レーニンである。
レーニンは、ドイツの哲学者ライプニッツなど、あらゆる世界中の哲学書を読むときに「こいつはこどもっぽい!」「こいつまた重要な論点から逃げ出してるぜ!」などと結構とんでもない主観を書き連ねている。
ポイントは、ノートというのは(ふつうは)他人に見せない場所だから、そこで自分の主観をこねくり回すことは、上質な思考のトレーニングになることである。しかもそれはただの落書きでさえよい。覚えたり、理解が深まればいいのだから。
語彙力の豊かな人や頭の回転の速い人は、こうした思考の貯蔵庫を持っていることがある。エジソンの場合は、アイデアのコレクションは3500冊にのぼるという。この貯蔵庫でしっかり練った考えをぽっと目の前に出すと、人には「オリジナルなもの」になっていたことがあるのだ。
冒険をする/何かにトライする
以前、読書猿さんの雑談論で疑問に思い、このような記事を書いたことがある。この時は「外国ではこの雑談論は通用するのかな?」という疑問の形だったが、もう一つ、大事な論点があった。
読書猿さんの雑談論は前提として「最低限の雑談」について書き、雑談の相手に「あまり相手に興味がない人」を置いている。そのため、「エピソードトーク」に対する評価が低いのだ。
エピソードトークは、自らの経験等を消費して話す必要がある部分があり、また話のリズムを選ばないと相手を飽きさせる可能性はある。しかし、うまくやることができれば、相手と親密な関係を築いたり、「この人なら色んなことをわかっていそうだな」という実感を持たせることができる。
この技術を習得するには、おそらく芸人さんのネタだしのようにノートを取り、事実関係を頭の中で整理しておくのに加え、自身が読書や実際に何かをした体験が必要だ(そしてそれはアイデアの宝庫なのは間違いない)。事実、これを書いている横で月ノさんはこんなことをしてきたらしい。
偶然を愛するために ーー恐れと固定観念を外す
David Bowieは、最初から出来上がっていた歌詞をバラバラに組み合わせることによって新しい歌詞を生み出す「カットアップ」という手法を多用するアーティストだった。この動画ではMoonage Daydreamが例として挙げられている。
このほかにも、wikipediaのランダムページ(http://ja.wikipedia.org/wiki/Special:Randompage)や、ランダムに三つの形を選び出し、それを今持っているアイデアと無理やり結びつけるフィンケの曖昧な部品、さらにはあさのめざましテレビの占いまで、人間の偶然性への愛は止まらない。
偶然に身を任せることは、安全な自分たちの足元が崩れ落ちるような経験をすることだ。でも、その先に進むことがやめられないのは、人間の宿痾なのかもしれない。
矛盾のなかにいる
BUMP OF CHICKENと椎名林檎は、共に曲の中に「矛盾した言葉」を書くことが特徴的な歌手だ。しかし、一方でエッジの聞いた曲を作る椎名林檎と、優しくつつみこむような曲をつくるBUMPでは、印象がまるっとちがったりする。
一見相反する、違和感のある言葉が強い力をもつことがある。例えばタモリさんは、林修さんの番組で『やる気のあるやつは去れ』と言ったらしい。これは、「やる気のあるやつは物事の中心しかみない。面白いことはその周辺にある。視野が狭くなっちゃだめだ」という意味だった。
このような矛盾(ダブルバインド)や謎に立ち向かっていくのは、怖いというか、辛い時もある。なんせ、文字上は言っていることがわけがわからないのだから。でもその謎を解くまでのその足跡は、例え間違いだらけでも、間違いなく何かの道を作っている。
「こんれーな」は哲学 ーーP.K.ディックの質問
にじさんじの夜見れなさんは、「こんれーな」という挨拶をする。そこに疑問を持ってしまったのが、同じくにじさんじの、チャンネルの顔がでかすぎる花畑チャイカ氏である。
彼の気づきはこうだ。「こんばんは」のこんに、夜見れなの「れな」。これならば正しい挨拶は「こんれな」になるはずだ。しかし何故か伸ばし棒が入っている。なぜだろう。そういえば月ノ美兎委員長は「こんばんワニノコ」という。これも意味がわかならいが、一応「わ」と「は」がつながっている。いやそもそも、朝の挨拶にそんな個性を使う必要があるのか?正しい日本語を使え…?
これは、(何故か知らんが)花畑チャイカ氏がSF小説家フィリップ・K・ディックの世界観に足を突っ込んでしまった瞬間である。フィリップ・K・ディックは、人間は「それは本当は何なんだ…?」と突き詰めようとすれば突き詰めることが出来ることを小説に繰り返し書いた。やりすぎると疑心暗鬼に巻き込まれることになるが、実は人間の社会なんてテキトーに出来ているということを僕たちに教えてくれる。
マリオを、「何回死んでもよみがえってくるのはなぜ…?」とか考えだすと、以下のような陰謀論をでっちあげることもできる。
糸井重里の創造論
糸井重里氏は、ジブリ映画のキャッチコピーやMOTHERシリーズの制作で有名なクリエイターである。現在では株式会社ほぼ日の代表取締役を務める。この人の言葉は、是非にじさんじのライバーさんに見てほしいなあと思いながら、先日、本を読んでいた。
つながりすぎないで、つながれることを知る。こういう関係が、インターネットの上ではリアルに感じられるかもしれません。「ひとりぼっち」なんだけれど、それは否定的な「ひとりぼっち」ではない。孤独なんだけれど、孤独ではない。 『インターネット的』p.50
問いがあったら答えがすぐ近くにある、というクイズのような問題ばかりを、いままでのメディアは取り上げてきましたが、実際の人間たちは、答えのない問題についてしゃべったり考えたりする場を求めていたのではないでしょうか。テレビをはじめとするメディアが、すぐ答えの出る問題ばかりを追いかけているときに、インターネットやケイタイや長居のおしゃべりで、若い人たちが体を使って防衛しているような雰囲気を感じます。(p103)
役割は点滅しているのです。ぼくもこれを書いている間、何度も「ペットボトル入りのお茶」の消費者になったり、夫になったり、新聞の購読者になったり、野球ファンになったり、いろんな人格を点滅させています。それをわかろうとしても無理でしょう? 科学でスカッと整理できるとも思わずに、わかりあえない者どうしが、どうやって信頼を結んでいけるのかを考えたほうが、これからの社会に合っていると思うのですが。(p149)
特に糸井さんが重視されたのが「消費のクリエィティブ」という言葉である。現代社会では、生産は「消費」とセットになっていて、市場が出来ている。情報の送り手と受け手と同じだ。ピカソの絵は、展覧会などの存在がなければそもそも存在していないのと同じである。すると「単純に遊んだり、休みを楽しく暮らしている」人には、違う意味でクリエィティブさがあることになる。持っているお金の多い少ないではなく、その使い方の豊かさを磨く方法を、日本人は考えてこなかったのではないか。
敵のあらを探すことで、安心できたりもします。比較される何かより勝っていることを見つけたら、優れているような気もします。でも、そういうことをいったんやめてしまうのが、ほんとうに「消費のクリエィティブ」を成熟させることになるし、ひいては、クリエイティブな生産をつくり出すことになるでしょう。これが、消費の豊かさというものを生み出していくための大きなヒントなのではないでしょうか。 (p231)
ホームランを見た瞬間に、他のホームランを打たなかった選手について語るようなことは、ふつうしないものです。心からホームランの気持ちよさを感じるだけでも、消費のクリエイティブは働いています。いいと思ったものを、他と比べないで誉める練習というのをやってみるのは、どうでしょう。けっこう、難しいのですが、自分の肥料になるような気がするのです。(p232)
他にも糸井氏はクリエイターの心に響く言葉を多く残しているので、是非探してみてほしい。「休みの時間こそクリエイティブ」と言った言葉は、今の時代を先取りしていたと思う。
悲しみや怒りを否定しない
西洋のポップスのルーツとなるブルースは、元々「悲しみや孤独」の感情を描く黒人霊歌や労働歌として始まった。その歴史は、今現在でも日本の再生数一位が米津玄師の『Lemon』であるとか、世界2位が『See You Again』であるところを見ると、まだ途絶えていないように思う。
にじさんじで取り扱うのは、もしかすると「人」がいるから難しいかもしれない。ただ、「喪失」や「怒り」を否定することなく、違うものへと変えることが出来れば、おそらく、新しい道が開ける…と感じる。(無理にする必要はないけど)
(洋楽の文脈では、テロ行為や人種差別に対しストレートに怒りを示すなどした曲もヒットチャートに多い。政治的な意見を表明するのが日本ほど恥ずかしいこととされていないからだろう。)
面白さの仕組み ー1が出来たらどうする?
これら、いろんな体験や観察で気づきを得られれば、そこから1を100にする方法を学ぶとよい。今のところ私が思いつくパターンは二つある。
一つ目は、ひとつのアイデアを他の物とくっつけることでどんどん大きくしていくこと。これはTRPGとか、ゲームのような総合芸術に向いている。
二つ目は、その一個や二個のアイデアを元に限りなく技術を基に、一つの強度の高い作品を作ることだ。例えばコクヨのアイデア商品がこれにあたる。職人芸に一味を加えるのも、間違いなく創造の一種である。
どちらにせよ、1を100以上に拡張する、アンプのようなものは、本屋で大全として並んでいる。さらに、元々存在している技法自体もかなり改変可能であることは、読書猿『アイデア大全』の後半部に描かれている。
こうした蓄積されたノウハウは、弱弱しかったアイデアを支えてくれる支え木になる。こういう技法のおすすめまとめ、noteに書き溜めておいてにじさんじの人が使えるようにしたいのだが(使わないなら読み飛ばせるし害はない)なんかいい方法はないかなあ…。
おわりに
今日(投稿した2月27日)はにじさんじFesという大きな催し物があるらしい。1期生の頃からどんちゃんさわぎを繰り返してきた人たちが、あらゆる業界の人を巻き込んでここまでくるなんて思ってもいなかった。
一凡人でしかない私が、ここまで文章を思い切って書くことがあるとは(一か月で10数個も記事を投稿した)。ここまで書いたのは、にじさんじがどんどん人気になっていって、ライバーさんたちが遠くに行くのが寂しい気持ちが、どこかに潜んでいたからだろう。
でも、月ノ美兎さんは冒頭にあるようにこう述べていた。
みなさん、楽しそうな場所を見つけたらおすそわけをしてください。一緒に人生やりましょう…。一緒に人生をね、神ゲーにしようかなと、思います。
「一緒に」することが出来ないと感じるほど、にじさんじのライバーさんのファンは増えているような気がしてしまっていた。もしかしたら、この言葉とかは、あまりに忙しすぎるライバーさんには届かないのかなあと。
でも、見方を変えれば、多分同じ時代に生まれて存在しているだけで、一緒にいることになったりはするのだ。だとすれば、今すぐ彼女のように「楽しそうな場所」を探してきて、適当に並べ立てることだって『神(のように自分が自分であることの出来る)ゲーム』に近づく一歩だ。
シンガポールのナイトサファリに居る黄色い蛇は、うろこをめくると青い血が噴き出してたから気をつけようとか
アメリカでグラミー賞を取ったR&B歌手もニコニコ顔で2次元のツインテの女の子を口説いていたから、にじさんじにもつけいるスキはあるぞ(?)とか
面白いことを探しにいけばいいのだ。自分の出来る面白いことをやってみよう。それが何かの拍子でにじさんじの人たちに届けばラッキーなのだ。
人間は誰かさんと誰かさんを比べたがる。そして、人間には自由な意志なんてほとんどないという哲学者や科学的証拠も上がりはじめた。
でも、そんな束の間の自由しか我々に残されていないのならば、その自由は全力で謳歌したい。それが、これまでずっとにじさんじを見て私が得たものだった。
おまけ
そういえば、最近ポールマッカートニーさんが新曲を出した。
私はこの曲の存在をPS4DAMのカラオケの新曲追加で知ったのだが、実は、同時タイミングで月ノ美兎さんの「アンチ・グラビティガール」がカラオケに入っていた。
長尾景くんたちVΔLZ三人組の目標の場所、武道館が伝説になったのは1966年にビートルズが来日初の武道館ライブを行ったことからだと言われている。当時はテレビですら白黒だったころだ。
虹色の世界を走りぬいた月ノ美兎と、白黒のブラウン管で見ていたポールマッカートニーが同時にカラオケに新曲が出る、不思議な時代に僕らは生きている。
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