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地獄の底が抜ける前に ーーLinkin Parkと夢追翔さんのこと



この記事は、先日自分が書いてしまった夢追翔さんについての記事についての釈明になります。いすゞさんのこの記事に付け加える形で、書いています。また、私のタイプのにじさんじリスナーの悩んでいることについても書いています。


Linkin Parkと夢追翔さんのこと


私がずっと聞いているアメリカのアーティスト、Linkin Parkのチェスターベニントンは、2017年に自ら命を絶った歌手です。彼は、亡くなる直前までテレビ番組や自分のメンタル面の病状を語るインタビューに出演し、突然に死ぬようなそぶりもなかったと言われています。

Linkin Parkの歌詞は、常にチェスターの幼少時代からのトラウマを曲にのせた歌詞を、Linkin Parkの結成当初から20年近く歌い続けていた。しかし、同じ絶望を持っていることを、強烈なスクリームにのせるアーティスト性は、世界中の暗い感情を持った人々の心を支え続けていました。

彼が残した最後の曲『One More Light』は、
「もしも人間の存在価値がチカチカ光る星の一つ程度、一瞬ではかなく消えるだったら、誰も気にしないだろ」という人に対して
俺が気にする」と力強く励ます曲だった。Linkin Parkの曲の中でも、数少ない、本当に人に手を差し伸べた曲でした。

チェスターが亡くなった時、Twitterや各地では、彼に心のよりどころを感じていた人たちの色々な暗い反応も多かった、といわれます。



夢追翔さんがやってきたことは、『命に価値はないのだから』をはじめ、自らの苦しみをさらけ出し、他の人には「こうはならないでくれ」と叫ぶ、自己犠牲的な部分も伴った音楽でした。この曲で彼は聞いた人に祈りを(あえて仰々しい言い方をすれば価値を)与えています。

PVから少しずつではなく、『拝啓、匣庭の中より』のアルバムを順番に一気に聞いていた私には、この姿が、亡くなったチェスターベニントンの姿に重なってしまいました

それが前回の記事で、非常に感情的に文章を書いてしまった理由になります。重ね重ね、申し訳なく思います。

加えて私のフォロワーさんや知り合いには、黛灰さん、鈴原るるさん、メリッサ・キンレンカさんがいなくなって、相当病みこんでしまった人、あるいは本当にTwitterをぶつ切りしていなくなった人をかなり見ていました。
そのため、別れの瞬間が、カタストロフィ(強烈な悲劇)の形で現れるのに恐怖を感じていました
私の立場として、引退などがありえるにしても、急激すぎる形は避けたい。すでに人々の日常のなかに、にじさんじの存在が大きくなっているからなおさら。それが私が考えていたことでした。


真ん中にいるヒーローがいなくなった時、人はどうすればいいのか。ワンピースのfilm REDでも特にウタの存在で配信者に関する物語が描かれました。
私は、彼が手を差し伸べ続けることに彼の願いを勝手に感じてしました。他者の助けを必要としているようなことを、これもまた極端な形で書いてしまいました。大変申し訳ありませんでした。



箱推しやライト層向けの対話の場所が欲しい ーーにじさんじ全体を通してみて


ここから描くことは夢追翔さん個人というよりも、にじさんじ全体の問題に近いです。しかも経営学の用語の解釈に関わることが書いてあることをご了承ください。

この章の要旨をわかりやすくいえば「ライトにコンテンツに触れている人が、にじさんじを語ることができる場所が欲しい」ということです。


にじさんじは、2021年にANY COLOR社に社名変更を行った際に、「共創」という概念を強く打ち出したメッセージを出しました。「共創」とは、簡単に言ってしまえば、コンテンツの作り手がよくファンや顧客の言うことを聞いて、これまでにない新しいものを一緒につくっていきましょう、程度の概念と捉えられるでしょう。


「共創」という方針は、一見すると一緒にお互いの意見を聞いて尊重して、コンテンツを作っていく美しい概念に見えます。
しかし、実際の経営学の本を読んでみるとそこにはこの概念の言う「共に作る」行為の難しさを書いていました。そこには、多くの「共創」の概念はお互いにダメ出しをしたり、ある種のお客とサービス主の緊張感の中でしか生まれないと書いているものがほとんどであったこと。
さらに、事業が拡大するにつれ、既存顧客と新規顧客の差が生まれるが、時に既存の顧客の要望を捨てなくてはいけないことがなまなましく書いてありました。(武山政直『サービスデザインの教科書:共創するビジネスのつくりかた』)

これが、これまでにじさんじのnoteを書いている時の私の悩みでした。

にじさんじの成り立ちや歩みを考えればその運営の方法やライバーの視線は、相当優しい。
そしてまさに夢追翔さんの曲や配信のように、外の世界から一度遮断された世界で心を立ち直す場所としてバーチャルの世界を見ている人は多いと思います。その時にアイデアを言ってみたりすることは、邪魔というか危険になると思います。「共に創る」とか言っている場合ではなく、休むこと、あるいは一つの世界観を大切にしてすることの方が、圧倒的に大事です。

一方で、バーチャルユーチューバーの社会での存在感が拡大すればするほど、例えばサロメ様のように表に出ていく人は増えていく。さらにファンが打ち出した広告そのものが新しい人を連れてきます。しかも音楽の場合、spotifyやyoutubeに置いてある以上、誰が聞くかは未知数です。
にじさんじが拡大すればするほど、「知らない人」は増えていく。そしてとんでもない量のアーカイブを見ていくわけにもいかない。


にじさんじの全体の理念を考えた時に、SNSだけではなく、オープンに話せる場所と閉じて自分の秘密を大事に話せる場所、どちらも必要だと私は考えます。
月ノ美兎さんや緑仙さんのような人が中心ではあれ、基本にじさんじの箱推しで見ている私が現在困っていることがあります。

必ずしもVの全ての動画を追いかけていないようなライトな人が、自分の解釈などをしゃべる場所・コミュニティがないのです。おそらく、音楽ならフェスやライブハウスのライブ後のような場所がない。これは一年以上前から時々noteに書いていたことでした。特にバーチャル(インターネット)上だからこそ起こっている悩みだとも感じます。
前回のあのnoteも、なるべく人と相談しながら書いたものでしたが、やはり社会人以上の人もいる中だと、見逃しなども起こります。そういう中途半端な人間が大勢いる場所が欲しい。

ライト層の意見は、新しいものを作るのに必要なのものです。
サッカーを見てにじさんじに興味を持った人、満点サロメってなんやねんと思ってやってきた人、偶然手に取ったにじさんじのファッショングッズが気に入ってきた人・・・ それぞれ違う世界の技術と知識を持っているからです。

しかしライトユーザーのいる場所は、ヘビーユーザーがいる場所と慎重にバランスを取る必要があるように、私は感じます。(ライト層の人であれ、人と話す機会が増えれば、それだけにじさんじ側から見れば極端に見える意見も、合うように調整されていくはずだからです)


一例としてProject Virtual Historyは、バーチャルユーチューバーの歴史をまとめている場所である。ただ「歴史」とまで名前についているため、軽く話す場所かというと、人によって判断が分かれる。


解釈(妄想)は事実を超えてしまうということ


共創という言葉で言われているのは、「面白いアイデアがあったら言ってみて!」という姿勢です。
一方で、アイデアや創作は、過去の現実を変えてしまう。

緑仙の「ジョークス」は、「イツライ」の続編であり、この曲が出たことで「イツライ」の方の解釈も変わっていく。自分自身に対する解釈のひとつ

解釈には、少なからずその人の願望が宿ります。つまり、ここにはない妄想、事実を曲げる可能性が常に含まれています。でも、今あるもので満足できるなら、そのほうが良い場合が多いのは間違いありません。


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