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おんがくと、あそぼう ーーみのミュージックさんへの賛辞と、生まれたひとつの問い


はじめに代えて ーー奥田民生と、まほうのとびらが開いたとき


奥田民生の曲に「意味」なんてないかもしれない。
そんな風に思ったことがある。

高校の時、初めて聞いた奥田民生のアルバムは『E』だった。
ソロのキャリアも長く続き、ユニコーンの時期から脱却した彼の緩い世界観がどこまでも詰め込まれたアルバムだった。中盤はひたすら「花」と「鼻」をかけたギャグがひたすら繰り返し続けて、でもひたすらにギターの音がかっこいい。でも何をいっているかはわからない。
でも、惹かれてしまった。

そしてこのアルバムのクライマックスには、『THE STANDARD』『CUSTOM』『ドースル?』という、彼には珍しく自分の思ったことをはっきりという曲が入っている。

彼は、言葉でなんか何も言いたくなかったらしい。
だからこの人はギターを弾いて、歌を歌ってみただけだった。

そして、天国の扉の向こう側を、不思議な音楽と一緒に見せてくれた。

たぶん、この人のギターの音に誘われて、フジファブリックの志村さんは音楽をはじめたのだろう。そして、多くの子供たちが、人生を狂わされてしまった。

そんなスターたちのことを、ずっと遠くにみていた。



問い「音楽で遊ぶのが苦手な子が、どうやったら音楽に触れていけるか?」


わたしは、文章をくだくだ長く書いてしまう癖があるので、タイトルにある「みのミュージックさん動画を見て考えたこと」を単刀直入にはっきり書いてしまおうと思う。それはひとつの問題提起である。

音楽で遊ぶのが苦手な子はどうやったら、
少しずつ音楽に触れていけるだろうか?音楽で遊ぶことができるだろうか?

みのさんの動画は、数多くの邦洋アーティストの曲を、その歴史的・音楽的な意味をかみ砕いて解説している。その動画を見て、私も数多くの音源を発掘させていただいた。
しかし、この3年間、コロナでカラオケやライブハウスを含め、みんなで音で盛り上がるのが難しくなった時代に、またリアルで音で遊ぶ機会を増やすにはどうしたらいいのだろう。よいきっかけはないだろうか。
 

キース・リチャーズのギターが必ずしも「上手い」ミュージシャンではないように、ウマさはあくまで一つの指標でしかない。「いなたい」ドラムという言葉だってあるように、時にはダサさだって魅力になる。


Vtuberと現代のJ-POPの世界を見た時に ーー趣味の細分化と劣等感をどう扱うか



なぜこんなことを考えているか、わたし個人のきっかけを書いてみよう。

今年の冬、元々趣味でよく見ていたVtuberの曲が、DAMやJOYSOUNDで一気に増えたのをきっかけに、「よし、最近の曲を知るために90点100曲取ってみよう」と非常に雑に考えて、実際にやってみた。

バーチャルユーチューバーの世界は、アニメ調のイラストの中に人が入って、キャラクターとして行動している世界だ。いや、人によっては、「中の人」という言葉も封印して、本当にそこに架空のキャラがいるように扱ったりもする世界だ。
そんな虚構の世界で生まれた曲は、現実の世界を変えて今どんどん世界に広がっていこうとしている。
先日、バーチャルユーチューバーのファンの人ともお話したが、おそらくバーチャルユーチューバーの音楽ひとつで、ちゃんとジャンル的な特徴が出ているはずだと、ファンは認識している(特に歌詞と符割り)。


ホロライブの星街すいせいは、Vtuberとして初めてTHE FIRST TAKEに出場。「Stellar Stellar」「みちづれ」の二曲を披露した


彼ら彼女らの曲に対する細かい解釈については先ほどのカラオケnoteに書いてあるから読んでいただくとして、曲を聴いて感じた印象を、短く言おう。



暗い曲が意外と多い。自分自身と向き合い、自己意識と戦う内省的な曲が多い。
②声が高くBPMが速くて歌いにくい。

この書き方だけだと嫌っているように見えるかもだがそうではない。その子たちにとって、この早くて高い曲たちはつらい。もちろん、そのような曲があるのは問題ではないし、むしろこれらの曲は名曲だと思っている
が、名曲にも色々ある。

月ノ美兎、星街すいせい、キズナアイといった一番有名なトップランカーたちの曲は、比較的明るい。しかし、少し奥まった所に入ると本当に自分自身の内面を掘り、絶望の海に落ちようとするような曲が多いのだ。
高くて早くて絶望的な歌詞・・・。
100曲カラオケで歌おうとした私は、ゲーム的な楽しさを感じていた反面、ある種の苦しさを感じていた。

こうした曲たちは、The BeatlesのHey JudeやBon JoviのIt's My Lifeのように、ライブでみんなで叫んで歌う曲のようには出来ていない。(Virtual To LiveやSSSのような、Vの大事務所を代表する曲ですら難しめだと感じる)
しかも、それらの曲が、どす黒い感情の歌詞を乗っけてやってきた。
少なくとも私は、ちょっと疲れてしまうタイミングがくることはあった。

難易度が高く、暗い曲が多くなった時に困るのは、歌が元々好きで歌いまくれる人というより、今から音楽に触れようとしている不器用な子たちである。
全ての人が歌を上手く歌えるわけでもないし、ギターを弾けるわけでもない。でも、推している人やカラオケで歌われる曲たちが難しくなればなるほど、うまく歌えない人たちの孤独は膨らんでいく。(これはみのミュージックでは、例えば「高音ボーカル至上主義ってどうなの【賛否両論24】」で取り上げられた問題にも近いかもしれない。)

(参考)精神科医の名越康文さんは、ネットカルチャーとも近い立場にあるアーティスト「夜好性」の曲たちの共通点を「生きづらさ」の代弁に見出していた。彼女たちの曲も、単語の数が圧倒的に多く、初心者向けと言える曲は多くはない(ヨルシカには若干ある)。
さすがにVの特徴をそのままここと比べるわけにはいかないが、90年代のヒットチャートのアーティストよりは歌唱の難易度が上がっていると感じている。小説を曲にしようとしたYOASOBIをはじめ、曲に厖大な物語やキャラクターを説明込みで詰め込もうとすると、音符の数は膨大になり、歌いにくさはどうしても上がっていく。


私自身、あまりリズム感や口の動きがよくなく、カラオケでここまで歌えるようになったのには5年程度はかかっている。そして、その時に頑張って練習した曲は、アレクサンドロスやMrs.GreenAppleのような難曲ではなく、奥田民生や星野源のように、みんなで歌うことを想定して作られた曲たちだった。
彼らの存在は、音楽で劣等生だった私にとっては希望の光にも近しいものだった。

現代は、たとえばデスボイス教師のMAHONEさんのように、医学的領域にきちんと踏み込んで歌い方を解説する人も増えて、勉強はしやすい。が、一定の音域以上を出すのには少し壁がある。

こう考えた時に、私の考察はまだ歌だけであるが、下手な時期でも触れるだけで楽しい音楽、あるいは触れやすい触れ方のセットをプロが教えてくれるだけで、音楽のうまいへたよりも大事な、音楽と一緒にあそぶことを知る人が増えるのではないかと思っている。
バーチャルユーチューバーにも、そんな曲が増えて欲しいなあ・・・とわがままながら思っている。


大瀧詠一がソロ活動初期にリズムの探求をし、果てには「イエローサブマリン音頭」という不思議な曲までアレンジを担当した。また坂本教授は自身のインタビューで、大学で西洋音楽に関する知識は一回頭に入れたものの、最後は捨て去りたかったと述べている。
そしてその時坂本教授が薦めたのは日常の音を聞くことだった。
もちろん大瀧さんも何十枚もアルバムを制作する必要があった期間であったとはいえ、「音楽を楽しんでいた」ように見える。
YMOと大瀧詠一の曲もまた、歌うのが難しい曲ではない。

最近でいえば、星野源の「うちで踊ろう」が、まさにあえて敷居を下げようとした曲の一つ。例えばゴスペルは、みんなで歌うことができる歌としての意味があったように、音楽の意味は作品に止まらない。


イラストレーションとAI ーースタイルを考える前の、絵を描く楽しさ

もうひとつ、くどいかもしれないが、違う世界の例を出したい。(脱線なので、音楽の話が気になる方は飛ばされてよい)
今、音楽ではAIに歌わせるのがだんだんと流行し始めているが、お隣のイラストの世界ではこの騒動がもっともっと大きなことになっている。

生成AIで創られたイラストをLoRAモデル(絵師さんたちのデータ)によって出力した絵を販売するサイトが誕生したことで、一気にAIを活用した商売に対する問題が噴出している。
人の作ってきたスタイルを勝手に持っていくことの意味がまた問われ始めている。


この文章の文脈から言うと、ここでも私が気にしているのは「遊び」のことである。

実は、個人的には音楽よりもイラストの方が敷居を下げるのが難しく、実際に絵を描いている人と絵を描いてない人の目線の差が深刻なのではないかと感じている。音楽にはライブやカラオケという集団で楽しむ場所が大きく開けているが、イラストまでなるといろんな人と話をしてきたが、本当にTwitter大喜利以上のそれが思いつかなかったのだ。

また個人的なことになるが、去年一年間イラストレーターの方と知り合ったこともあって、イラストの歴史的な価値などを頑張って読んできた。これはこれで必要なのだが、やっぱりこの方法で絵を知るのには限界がある。いくら空気遠近法や色の知識を詰め込んでも、音の強弱と同じで微妙なバランスに関しては体得していくしかないはずだからだ。

ただ一方で・・・AIのイラストの件で見ていて感じたのは、このイラストを体得する過程で起こるものの見え方の変化の不思議や楽しさが、共有されないと、AI以前に技術のうまさの戦いの場所になってしまうのではないかと見ていて感じる。
今考えているのは塗り絵やタイルをぺたぺた貼っていくような遊びを作ることである。




スマブラを作ったディレクターの桜井政博さんは、自身の動画で任天堂が常にゲームのジャンルでシェアを持てる理由に「若年層に受け入れられているから」を上げた。人は成長していくうちに価値観が多様化していく。好みのゲームジャンルが出来ていくが、いくらこだわってもその枝は先細りするだけである。

文字通り「オタク」という言葉の原点となったアニメやゲームは、語ろうと思えば無限にこだわりを語れる。最初、ちょっと知識自慢をしようと思いながらある種イきりながらコンテンツに触れていく人も多いだろう(私にも覚えがある)。こだわりをごりごりに物に込めていく人もいる。

一方で、音楽とイラストの世界で価値観の幹となる楽しみとは何だろうか。
それは、ギターを弾いたときの初めての音に対する衝動や、点や線の繋がりでしかないはずのインクの染みがつながった時の感動ではないだろうか。(それが最初はみっともないへなへなの文字や音であっても)。


『電脳コイル』などの作品で有名なアニメーターの押山清高さん、井上俊之さんは、アニメ塾を始める時に「絵を動かす楽しさ」を重要視しているという。
おそらくこれほどアニメが国をも動かす産業になったのだから、「絵を見る楽しさ」はある程度共有されている。果たして、「動かす楽しさ」はどのように浸透させればいいだろうか。


おわりに ジョンレノンの思想とみのさんへ ーー音楽の初心へかえること

ビートルズを辞めた後のジョンレノンが、とてつもない形相で、自分のある種楽観的な曲を、人々が一緒に歌ってくれることの意義を、まくしたてるように語った動画が流れてきたことがある。

この文章で提示した問い「音楽で遊ぶのが苦手な子が、どうやったら音楽に触れていけるか?」は、言い換えると「音楽を聴くのに飽き足らなくなった人たちが、どこから自分の音楽を始めたらいいのか」という問いでもある。

知り合いの音楽家やイラストレーターの人は「死ぬ気でやらなくちゃうまくなるわけない」と言っていた。そして、実際色々インタビューを見たりしてもそうなんだろうと、強く感じる。
でも、全ての人がプロの音楽家にもイラストレーターにもなるわけでも、なれるわけでもない。そして、音楽家やイラストレーターも、時にプロの洗礼(上手さが要求される世界でボロボロになっている人を何人も見てきた)を受けて、すがりつくものもなくなってしまうこと、あるいはドロップアウトしてしまうことだってあるだろう。
これは私の思想として――音楽やイラストが、あまりの生生しいうまさの競争や椅子取りゲームの道具になってほしくはない。時に、そういうことがあったとしても、夢の跡に残ったものが嫉妬と怨念だけだったという状態にはなってほしくない。
そのためには、技能とかが問われる以前の遊びを、どんどん発明していくことがあっていいのかなと思う。
ある人たちは、たしかに音楽やイラストがないと生きていけない。
でも、その世界はいつも地獄やプロの戦いではないのだ。

ジョン・レノンの願いは、彼の歌が世界中の人々に届き――すべてを救えるわけじゃないかもしれないが――その平和と想像力が少しだけ世界を変えることだった。それはうまい絵や音楽ができなくても、言葉で少しだけなぞれるだけでも良かったのだ。


まだこの文章は問題提起の域をでていないが、私もわたし個人で、どうやったら音楽やイラストを日常の中で触れやすくできるだろうかと、知り合いの絵を描く方や音楽家の方に雑談で話して、アイデアを募ってみたりしている。(直観的には塗り絵やハンドクラップのような素朴な楽しみ方を再発見するのが大事かな・・・と思って色々考えている)


この文章は、なんというかあっちにいったりこっちに行ったりした文章になってしまったが、最後に大事な言葉がある。



実は、みのさんに出会うまで、私はほとんど洋楽がわからなかった。
Queenのように、超有名バンドの曲は聞いていたがなかなかビートルズの細かい歴史や今、重要視されるアーティストたちは知らなかった。
けれどもblurやErykah Badu他、数多くのアーティストを知って、聞くたびに衝撃を受けた。

新しい時代の大瀧詠一が現れたと思いました。
そこで奮起して、このリストにある曲もよく歌うようになって、音楽(歌)は私の人生の一部になりました。
どうか、これから先も新しい音楽と新鮮な目線を探しつづけてください。
応援しています・・・!


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