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芸術と人生 Ⅰ


 「近頃の人は面白みが無くなった」と聞いたことがある。利便性や効率を重視し、やたらと無駄を排除しようとする現代。

 本を読まない音楽を聞かない絵画を知らない映画を見ない学問をやらない。面白みが、ない。人々はサイボーグ化しているのではないだろうか。

 人間の遊びをやろうよと、僕は言いたい。

 もちろん全てに触れる必要は無いけれど、そんなに高くない金額で楽しむことが出来る。

 古典的名著である太宰治の人間失格なんて、300円足らずで買える。本屋で値段を見たときに腰を抜かした。2000円ぐらいすると思っていたからだ。

 本を読んでいるとよく思うのだけれど、小説とか音楽とか絵画って、集中力がないと楽しめないのだ。

 携帯の通知本を数分に一回気にしたり、雑念が頻繁に起こったりすると、上手く楽しめないのだ。

 携帯やらSNSやらに脳みそを侵されてしまいがちな現代の人達には、余計に芸術って必要なのではないかと思う。

 長編小説を読み切ることが出来る人は、一体どのぐらいいるだろうか。

 嫌なことや苦しいことが多いこの現実社会で、私達は何とか生きている。かろうじて。

 無目的に生き続けられるほど人生は甘くないし、逃げ切れるほど短くもない。だからみんな、何とか今日と明日を生き抜くために必死に頑張っている。

 趣味だったり、家族だったり、他者貢献だったりを生きがいにしたり、悪い方面に行けばお酒やギャンブルなど悪い方面に縋りついてしまう。

 人生って、凄く長いのだ。
 人が狂ってしまうほどに。

 僕はそんな社会で生きていくために、芸術が必要不可欠だと思う。

 単なるありきたりな「娯楽として必要だ」と言いたいのではなく、「生きていくために必要だ」と言いたいのだ。

 毎日の食事や睡眠と同じ、そのぐらい芸術が私達には必要だと思う。

 僕はもともと絵を描いたり、音楽を聴いたり、本を読んだり、漫画を読んだり、アニメを見たり、何かものを作るのが好きだった。

 それに、街中にある綺麗な建物などに息をのむような性格をしていたから、とても「芸術作品」というものが大好きな人間だと思う。

 ただ、単なる娯楽として芸術が好きだという程度ものであれば、「生きていくために必要不可欠だ」とまでは思わないだろう。

 なぜ、生きていくために芸術が必要だと思ったのか。

 僕が「芸術が生きていくために必要不可欠だ」と思った理由は、芸術や思想哲学などの、分かりやすい実利がないもの、少し乱暴な言い方をすると「無駄なもの」を楽しめないと、人生が地獄に変わってしまうと思うからだ。

 ふとした時に虚無感に襲われる、なぜ生きているのか良く分からないこれからの時代、芸術を楽しめる人はかなり幸せなのではないかと思う。

 まず前提として、芸術は価値のないもの、金になんかなりはしない、職業としては食っていけないから無意味なもの、というイメージが付きまとっている節が少なからずあると思う。

 芸術というものは実際に何か分かりやすい形で人の役に立たないと思われていることが多いから、過小評価を受ける。

 みんな芸術に少なからず触れてお世話になっているくせに、どこか芸術を腹の底では軽視している部分があると思う。

「そんなもんばっかり見ていないで(聴いていないで)少しはためになるものに取り組んだらどうなんだ」と周りからも言われるし、本人も心のどこかでそう思っている。

 漫画やアニメを見ながら背徳感を感じるという謎の現象が起きる。

 好きで楽しんでいるのに、心の奥底で「これ無駄なことなんだよな」と自分やその作品を卑しく思っているという不思議な状況に陥っている。

 芸術の道へ進もうとしている人がいると、周りは「やめておきな」と止める人が大半になってしまうのは、先ほど述べたようなイメージが芸術の道に付いてしまっているからだ。

 僕ははっきりと述べておきたい。人生がつまらなくなったのは、無駄を愛せなくなったからだと。

 芸術に限らず、「哲学的なことを考えること」など、「そんなんやって何になるの?」と言われているものをもっと楽しめるようにしないと、この先もっと人生がつまらないものになってしまう。

 小さい頃は、普段の生活が無条件に楽しかった。それは、無駄を楽しめていたからだ。

 友達とスポーツ選手を目指しているわけではないのにボールを追いかけて遊んで、ゲーム実況でお金を稼ぐわけではないのにゲームに明け暮れて親に怒られて、ただただ純粋に面白いからテレビでアニメやドラマを見て、生活に無駄が溢れていた。

 そして、それらを心の底から楽しんでいた。
 嫌なこととか辛いこともあるけれど、トータルでは「毎日楽しい」と思える心の余裕があった。

 でも、少しずつ年齢が上がってくると、どんどんこの無駄を無意識に敬遠するようになってしまっていた。

「そんなんやって何になるの?」という無駄を排除しようとする気持ちが大きくなっていたのだ。

 将来の役に立たないのであれば、今はそんなものに手を染めているべきではないと思うようになったのだ。

 そこから妙に、変な責任感や社会からの重圧みたいなものを肩に背負って息苦しく生活するようになった。

 それは、子供から大人へと自立していくうえで必要なものかもしれないけれど、必要以上に自身の成長のために無駄を排除しすぎるべきではないと思う。

 上には上がいるから、成長のために全てを犠牲にしていると、後から残るのは効率や生産性に縛られたロボットのような思い出のない虚しい高性能な自分だけだ。

 自分がやりたいことをやるためには、もし自分に家族ができてその愛すべき家族を守りたいなら、自分には力がいる。

 そのためには然るべき方向を向いて努力を積み重ねることは必要だろう。社会はぼけーっと生きている人には競争原理の中ではかなり厳しい。

 でも、競争原理の中での勝者が幸せとは限らない。

 例えオリンピックのチャンピオンだったとしても、いずれ来る敗北の恐怖に怯えて震えながら毎日生活しているということもあるだろうし、例えお金が掃いて捨てるほどある企業の社長だったとしても、時間に忙殺されてただのロボットみたいな感情のない生活をしていることもあるのだ。

 だから、分かりやすく認めてもらえる結果を出すために、あらゆる無駄を排除してサイボーグみたいな努力をしても、後から自分に帰ってくるのは虚無感だけだ。

 それは、虚しい人生への入り口だと思う。遠回りや無駄が、私達の人生には必要だと思う。

 それに、「そんなんやって何になるの?」という悪魔の質問を突き詰めていけば、人生でやっていることは全部無駄なことなんだ。

 人間なんて、元よりどうして生きているのかが曖昧な生き物だ。

 それに、あまり根拠なしに下手なことは言えないけれど、文明はもうとっくに発展しきってしまっているのではないかと思う。

 食事をとることに問題が無くなったから、人類は次に「どう美味しく食べるか」という方向に進んだ。

 居住環境は手に入るようになったから、次は「どう快適に暮らすか」という方向に進んだ。

 そして、幸せに暮らすためには人とのつながりとか、無駄を楽しめる事とかの方がよっぽど大事だと思う。

 全てを投げ捨て、仕事を辞め、家で一日中テレビを見たりゲームをしたりするべきだという極論を言いたい訳ではない。

 でも、日常で自分の趣味として触れている無駄と思えるものを卑下する必要は絶対にないと思う。だから、思う存分楽しんだらいい。

 もう、生きていくうえで人類に必要なものはある程度揃ってしまっていると思う。

 だから、人類は「どう幸せに暮らすか」ということにもっと真剣に向き合うべきだと思う。

「どう発展するか」ではなく、「どう幸せに暮らすか」だ。

 人類がどこへ向かって発展しているかが全く分からないから皆不安なのだ。社会の流れに乗り遅れる恐怖感は感じるけれど、結局この大きな流れの正体やこの流れの向かう先が複雑すぎて分からない。

 ただただ漠然とした不安だけが背後から迫ってきていて、いずれ職を失うかもしれないという恐怖感だけ感じている。


 私達には芸術が必要だ。生きていくために。






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