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「違い」はあっても「間違い」はない

――生まれた場所も、肌色も、言葉も、違いはあっても、間違いはないですよね。


【#202】20220118


人生は物語。
どうも横山黎です。


作家を目指す大学生が思ったこと、考えたことを物語っていきます。是非。最後まで読んでいてください。


今回は「『違い』はあっても『間違い』はない」というテーマで話していこうと思います。


☆違いはあっても間違いはない



僕らって一人ひとり違うじゃないですか。


生まれた場所も、肌色も、使う言葉も違います。


世界規模で見たら、

本当にバリエーション豊かです。


時に、

その「違い」が原因で、人はぶつかり合います。


自分と違うから、相手をバカにします。
自分と違うから、嫌いになります。
自分と違うから、仲間外れにします。
自分と違うから、恐れます。
自分と違うから、殺そうとします。


ただ「違う」だけで、

命を奪われることだってあったのです。

そんな歴史はもう繰り返したくない。

「違う」ことは、悪いことじゃない。

もっと美しいことのはず。


命に「違い」はあっても、

「間違い」はない。


僕はそう信じています。


☆「共生」とは「違い」を尊重すること


突然ポエムもどきが始まって驚かれたかもしれません(笑)


今回、何を伝えたいかというと、「違いはあっても間違いはない」ってことで、それがそのまま僕らが今作っている新しい『桃太郎』のメッセージでもあります。

僕は今、新しい『桃太郎』をnoteで共同制作するという企画を進めております。記事のコメント欄でやりとりをしながら、創作しています。ストーリーを共有してから結構盛り上がってきました。


僕が今回新しい『桃太郎』を綴るにあたって、テーマとして掲げるのが、「共生」です。


従来の『桃太郎』では鬼を退治することに重きが置かれていましたが、今求められている物語はそうではなくて、鬼と共に生きていく方が良いなあと思ったので、その方向で作っています。


じゃあ、「共生」ってどういうことなんだって話ですが、その答えの一つに「違いを尊重すること」が挙げられると思います。


生まれた場所も、肌色も、言葉も、違いはあっても、間違いはないですよね。


お互いの「違い」をお互いに尊重することが、共に生きていくためにまず必要なステップだと考えます。


☆動物たちをしゃべらせない


第一稿を読まれた方はお分かりになったと思われますが、今回、動物たちをしゃべらせない設定にしました。従来の桃太郎では、童謡でうたわれているように、「きびだんごひとつ私にくださいな」とお願いしたりします。言葉を通じて桃太郎との会話が成立しています。


しかし、僕はその設定をやめることにしました。


理由は二つ。

一つは、桃太郎とキコ(鬼の娘)が森の中で出逢うシーンがあるんですが、そこで桃太郎とキコが同じ言語を使っている設定にすると、情報交換ができすぎてしまうと思ったからです。

「自分の正体は何なのか」
「どうして森の中にいるのか」

お互いのことを知るために、言わせようと思ったら言わせられるんですよ。ってか、言わせないと不自然なんですよ。


だから、ここは、とりあえず名前だけ情報交換すればいい!と思って、人間の言葉と鬼の言葉を違うものにするという設定にしました。


となると、動物たちも違う動物たちそれぞれの言葉を使っている方が筋が通っています。



二つ目の理由が、より「共生」を意識させることができるからです。

さっきも語った通り、違いはあっても間違いはない、がメッセージですから、たとえ言葉が違っても共に生きることはできるよね、という展開に持っていった方がいいと思ったのです。


まあ、そんなこんなでイヌもサルもキジも人間の言葉は使わないようにします。ただ鳴くだけ。でも、桃太郎とはなんとなく意思疎通ができるようにしようと思いました。それが、「言葉は違っても共に生きられる」表現の一つになっていますから。

ということで、今回は「違いはあっても間違いはない」というテーマで話してきました。


実は、このフレーズは、高校生の頃に思いついたもので、個人的にそれなりに気に入っています。(笑)こんな形で上手く利用できるとは思ってもいませんでした。二年越しの伏線回収です。人生、面白いですね(笑)


最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
横山黎でした。



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