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芥川文学と普遍性


人生は物語。
どうも横山黎です。

今回は「卒業論文『芥川龍之介研究 『桃太郎』を中心に』の第8章『結論』を共有する」というテーマで話していこうと思います。



📚「結論」

 ここまでの研究を振り返ろう。

 まずは昔話「桃太郎」の変遷を辿った。時代によって求められる物語は違うため、普遍的で王道的かつ親しみやすい「桃太郎」は時代ごとに利用されてきた。戦時期の日本や日本人の精神の根底を支えていたのが、帝国主義や軍国主義の教化のために利用されていた『桃太郎』であり、全国民を桃太郎と化し、鬼退治へと向かわせた。日本人誰もが知る昔話の主人公は一国の運命を背負う英雄的な役割を担わされたが、日本は敗戦し、その贖罪を果たすように教科書から姿を消した。

 しかし、日本人の精神のなかには残り続け、教科書に掲載されない現代においても、桃太郎は日本で最も有名な昔話として殿堂入りを遂げている。そんな昔話だからこそ、幼児教育や初等教育における教材としての価値を見出した。また、中等教育においても、昔話「桃太郎」の変遷を辿ることで総合的な探求の学習を実現できると考えた。教科横断的な学習を展開でき、日本文化の理解にも繋がる。

 教材としての価値が高いのは、芥川『桃太郎』にもいえることではないか。戦争のプロパガンダとして利用されることになる前から、桃太郎に、善悪とは別の次元の「天才」という属性を見出した。閉塞した時代を生きる人間は得体の知れない不安や迷いが原因で、たとえそれが罪悪であっても、周りを巻き込み、何か一つのことを成し遂げるために勇進していく存在の到来を待ち望んでいるものである。

 芥川『桃太郎』は、日本人なら誰もが知る「桃太郎」を再話するなかで技巧的に、そして遊戯的にそれを指摘した。関東大震災直後の不安定な時代に書かれた作品だが、まもなくして昭和天皇をはじめ数々の軍人たちの導きにより国民が一丸となって戦争に立ち向かっていったことは、芥川『桃太郎』の指摘の信用性や普遍性を裏付ける根拠となる。

 芥川『桃太郎』の指摘にあたるのは、太平洋戦争だけではない。現代においてもいえることである。自然災害やパンデミック、戦争など、得体の知れない不安を抱えるようになったとき未来の天才が眠りから覚める。実際に、東日本大震災や新型コロナウイルスの蔓延、ロシアのウクライナ侵攻といった自然災害、人為的災害は記憶に新しく現在進行形の問題も少なくない。そのような不安定な情勢下、周りの人間を巻き込み何かを成し遂げようとする天才のような存在に触れる機会は少なくなかった。芥川『桃太郎』の指摘は決して一過性のものではなく、百年後の今にも通じる普遍的な伝言であることが分かる。

 芥川は、『文芸的な、余りに文芸的な』において、「『話』らしい話のない小説」の意義について語っている。「通俗的興味の乏しい」「純粋な小説」に興味を持っており、そのような作品も「百代の後にも残るであらう」と予感している。芥川は「通俗的興味」を「事件そのものに対する興味」と言い換えているため、時事や昨今の出来事に対する興味は小さいといえる。

 芥川『桃太郎』のなかで前年に起こった関東大震災やそれを折に勃発した朝鮮人や中国人の大虐殺事件、プロレタリアートの実態や帝国主義の日本に触れつつも、そこに対する興味は大きくないということだ。それ自体を風刺することが目的ではなく、純粋な小説を書くことにそれがある。

 『文芸的な、余りに文芸的な』において芥川自身、「純粋な小説」を明確に言い得ることができていないが、「奇抜」を狙わず、「唯身辺雑事を描いただけの小説ではな」く、「最も詩に近い小説」と説明している。身辺に起こった出来事をただ事実に即して単純に物語るのではなく、それを受けて自らが思うところ、疑問や主張を、「話(物語)」を意識しすぎずに、詩的に、技巧的に物語っていくことに、芥川は興味を置いていた。

 だからこそ、芥川の作品は、芥川『桃太郎』に限らず、いつの時代においても愛されているのだ。読者に、絶妙な視点から世界の姿を見せ、衝撃を与えると同時に、善悪の二項対立ではなく、それを超越した存在について考えさせ、読者自身の生き方を問うている。ここに、芥川文学を読む魅力があるのではないか。




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