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③ 象徴としての"モノ"

象徴としての"モノ"

モノ(物質)は本来「奥行き(物語)」を含んでいる。

 

言語化できずともなんらかの理由が存在して手に入った"モノ(物質)" / 買って得られた"モノ"はその役割が終了するまで使われ続ける。
手に入れる理由は明示的でなくても、潜在的でも良い。むしろ潜在的な理由であることの方が多いと思う。

そうして、潜在的な理由をもって 買われる / 手に入った モノは、ある意味で"象徴"として機能する。"象徴"としてのモノには隠れた物語や前提という「奥行き」が存在する。

潜在的な理由も無く、買った / 舞い込んできた "モノ" はすぐに興味が失われる。

断捨離が流行るのは、文脈の無いモノ・物語の終わったモノ を人々が置き続けることによって、新しい物語が始まらない停滞感を感じるから。


強迫的なプレゼント文化(バレンタインデーや、出先で職場の人にお土産を買ってこないといけないプレッシャーのような。)によって、強迫観念に駆られてプレゼントされたモノがすぐに使われなくなるのは、そこに物語という奥行きが無いから。


(プレゼント文化は、商業主義によって刷り込まれた、「この日にプレゼントをあげないと失礼ですよ!!!」という強迫観念です。本来の「心から湧き出る気持ちをモノにして贈る」という心→物の順序が機能していません。物を贈ることが義務のようになっています。
そうでないプレゼント行為はこの世にたくさん溢れていますし、ほとんどが愛のある最高のモノの受け渡しだと思いますが、ここでは象徴として機能するモノについて考えるために、悪いように現れる、強迫的なプレゼントについて考えてみます)



プレゼントを例に「奥行き」について考えてみる(プレゼントの強迫観念)

さてそれではプレゼントを例に、「奥行き」について考えてみます。

プレゼントされる"モノ"は、そもそも「プレゼントされる」という文脈に限定されるため、その文脈における象徴として機能しないならば、すぐに"要らないモノ"になる脆さをはらんでいる。

多種多様なプレゼントがあるが、その中でも、誕生日などのお祝いごとでのプレゼントという文脈において機能しているモノにどんな種類があり、それがどんな象徴的な意味を果たしているか考えてみる。(特に、プレゼントに強迫観念をもって、不自然なことをしてしまうケースを想像しながら考えてみる。)

①簡単に消費され消えて無くなるプレゼント
簡単に消費され消えて無くなるプレゼントは、文化・慣習に沿ってあなたを大切にしていますという物語に乗る。特に強烈な象徴を植え付けたいわけでも無いケースのとりあえず良心での"プレゼント"という文脈では、消えて無くなるものくらいが丁度良いのでしょう。これはプレゼントの定石として使われている気がする。

②日常使いに使えるプレゼント
日常使いに使えるプレゼントは、「贈り物」という気持ちの面でもプレゼントであり、しかも相手の生活の中で「機能する」という文脈によって、相手のニーズに合致するという機能面での意味も持つ。つまりこの2つが合わさると、それだけ相手を慮っている関係性の象徴としてそれだけニーズを推察してくれている"モノ"として扱われる。

そうした意味も込めて、関係性の象徴として、日常使いに(本当に)使えるプレゼントは強い意味を持てる。しかし贈る人の意図が外れて全然役に立たないというリスクもあるのが、この種のプレゼント。


③置き物や記念品のようなプレゼント
置き物や記念品のようなプレゼントは、関係性の"象徴"として特に機能しやすい。そこには、象徴としての機能以外があまり無いから。その大きさ・性質には意味があると見て(=深読みして)いいだろう。そうした置き物や記念品としてのプレゼントは、適切な象徴として機能するモノを選べれば、誠意のこもったプレゼントとしての文脈に乗るケースが多そう。
余談にはなるけれど、置き物や記念品と言えばインテリアや自分用に買う旅先でのお土産に加えて、なんだかミュージシャンのライブのグッズを思い出す。あれはミュージシャンとの関係性の象徴として買うのかもしれない。


以上は例ではありますが、
①簡単に消費され消えて無くなるプレゼント
②日常使いに使えるプレゼント
③置き物や記念品のようなプレゼント
これら3つでなんとなく網羅的になっている気はしています。

これら3つに属さない / 属せないプレゼント、たとえば
・関係性のラインの超え方が変なプレゼント(もしくは関係性のラインに比べるとすごく消極的なプレゼント)
・実生活で機能しないだけでなく、精神生活でも"象徴"としても機能しない、
となると、プレゼントとしては失敗となるのでは無いでしょうか。


プレゼントの文脈として機能しないモノは捨てられる。

片思いの相手にする、"重たい"プレゼントなんか、典型かもしれません。関係性のラインを不気味に超えてきて、かつ実生活でも機能しない。もちろんその人の生活で関係性の"象徴"として機能するわけもなく、いつの日か捨てられる。そんなような。

また、通常「余ったからあげる」によって、渡されるものは、それが何の期待や押しつけがましさもはらんでいないゆえに、プレゼントの枠を超えて、モノの受け渡しとしては、かなり「自然」だとも感じます。

一方で現代人は、さほどモノに困っていないし、買えば手に入る環境でもあるため、
 建前は「あなたが喜ぶと思って」
 本音は「要らないから手放したい」
で受け渡しされるものほど、


潜在的には、"ニーズを満たせば使われる。ニーズを満たしていないならばゴミ箱行き"のニュアンスまで含まれてしまうのではないでしょうか。

それでうまくいくケースはもちろん多々あると思いますが、もしそこにケアの精神が無く、自分に片思いしてる人がくれる大きな花束のような押しつけがましさがあるとするならば、それは実は歪であるようにも思います。

たとえば、発展途上国に送られる先進国の古着や、被災地に送られる数々の物資は、建前は「あなたのため」、本音としては「余ったからあげる」でありこともあり、ただ「気持ちの表明」という文脈として薄く機能していることになり、もちろん現地の人のニーズを満たしていることもあるでしょうけれと、いま社会問題となっているのは、それら物資が現地で必要とされておらず、大量廃棄されていっていることです。
それら物資は、現地の人のニーズを満たしてもいなければ、送り主にはニーズを満たすほど考え抜く"気持ち"もないというネガティブな意味での"象徴"として機能しているも捉えられかねず、そんな状況の中でゴミ山となっていく。。。そんな、物資的にも精神的にも悲惨なことが起きているようです。気持ちのすれ違いと言ってもいいかもしれません。もったいないですね。


「象徴としてのモノ」に 無自覚なとき、歪つな生産システムが完成する

さて、ここでニ者以上の交換関係の話から離れ、一個人とモノの関係性を考えてみます。一個人が自分用にモノを手に入れるときも同じようなことが起きているように思います。

一個人が無駄に買っていったモノたちは、一定期間自分の"象徴"として機能するが、"象徴"でなくなったものは捨てられる。服などは"象徴"の典型かもしれません。

そしてそうした"象徴"としてのモノが機能しなくなったあと、それをいつまでも捨てられない、もしくは、そうした"象徴"として機能していること(=奥行きの世界)に無自覚で、いつまでも自分の空虚感を埋めてくれるなにかを探している人が、大量消費のライフスタイルでモノを過剰に消費し、その人たちの回すお金によって、「奥行き」を失っている病理的な物質大量生産体制※が生存し続ける。

※奥行きを失っている病理的な物質大量生産体制=生産されたモノが消費されてゆき、ゴミとなっていった先のことが考えられておらず、どこかに歪みを生んでいようが気にも留めない生産スタイル=モノのライフサイクルのうち、動脈部分である"買うこと"しか気にされず、静脈部分である"使われる"→("次の誰かが使う"→)"捨てられる"ことまでは考慮されていないモノを生む体制。


要らない”モノ"は既に"意味"を失っている。

"要らないモノ"は既に"意味"を失っている。
それらは、いわば"形だけ"のモノ(形骸化したモノ)であり、街の単位なら"形だけ"建てておいた / 作っておいたモノ。”都市開発”によって創られた箱ものの施設でも、特に使われてないような施設とは、そのプロジェクトの始まりをたどっていくと、建てられた動機が本当に”形だけ”で、何か街が発展してる感を出して経済成長に貢献すれば嬉しいというようにつくられたのではないかと思います。それらの”形だけ”のモノたちはもはや人々のこころには何ら作用しないモノとして存在している気がします。それか、一周回って、そうした”形だけ”には、人間の形だけだろうがなんだろうが、より良いものを生み出したい!という願いを見て取れると、それはそれで豊かな場所とも映りますが、これはかなり逆説的な話のように思います。

つまり本当は我々は、街に新たにつくられるものは、それが街にとってどんなシンボル足り得るのか?それが街の物語とどう接続しているのか?それをハッキリさせ、まちの物語たどり、次の物語に耳を傾けることが求められているのではないでしょうか。そうした導入の物語・歴史への接続がハッキリしなければ、ただただ外面的な操作によって、"便利だから"・"役に立つから"という理由だけで導入された”形だけ”の、街のアイデンティティでも無ければ住民に愛着も無いただの建造物となり果ててしまってもおかしくありません。

またそこでは一般に街で暮らしている人からすると、"役に立つから"という理由で、街にとっては意味のないモノを導入してくる何らかの幻想的な夢を抱く意思決定層がいて、彼らの意図(ご都合)によってその"意味のないモノ"は出現すると見えてもおかしくありません。またどこかの誰かの意思で、よく分からないものが街に増えた、とか。街に活気は増すし、経済は潤うけれど、私が好きだった街じゃなくなっていくなぁ、とか。そういったことを考えると、彼ら意思決定層に一般の人(わたしたち)が半ば"利用されている"という感覚を潜在的に植え付けられているのかもしれません。


「ナチュラルに生きる」意志の延長で「"象徴"としての”モノ”」が街に出現する

ここまでの話がどれくらい”正しく”て現実味のある話なのかは分かりませんが、少なくとも言えるのは、自分の街、もっと広く言えば自分の”住んでいるところ”(小さな村の単位から、国とかそういう大きな単位まで。)に関して、その場所で一個人が主体性をもってナチュラルに生きることを通して、結果として、その街でほしいもの・心から必要だと思うものを、アイデアとして思いつき、なにかそれが実現されるプロセスに参加していくということが大事になるのかなと思います。そういう意味では、その場所の意思決定層は、その街の人々が、街に参加し、そこを動かせるという道が整備され、街と人がなにか深い結びつきを感じられるような動線をつくっておくのが大事かもしれません。

そうした「まちをつくる」という意志・そして「ナチュラルに生きる」ことのプロセスによって生まれてくるのは、象徴としての「アート」かもしれませんし、最初から”象徴”とは意図していないけれどその場所の”象徴”と結果として成り立つようなその地域の深刻な課題を解消する ”役立つもの「ビジネス」” かもしれません。
いずれにせよ「まちをつくる」「ナチュラルに生きる」ということの延長で「"象徴"としての”モノ”」が出現する、と考えて良いのかと思います。

「あらゆる”モノ”は”象徴”として機能している」という観点を入れることで、本当にひとがほしいと思う”モノ”にあふれていく世の中になれば良いなと思います。


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