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⑤ "モノ"はストーリーと共に展開する。

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モノはストーリーと共に展開する。


完全に人間の内面だけでは内面の話は一切完結しない。

つまり、モノは意志も象徴するし、関係性も象徴する。モノの方に、つまり人間の"外側"に自分の心がある。とまで捉えてみるとしっくりくる。


あるモノをどう配置し、どこに置き、何を置き、誰と置くのか?そこにすべて端的に内面世界で展開されてきたストーリーが現れるように思う。

モノを通して、人と人の尊重と和解、狂気と冷静さの揺れ動きが現れる。

人と人がうまくいかないのは、お互いの共犯関係と捉えた方が良いとはよく言われる。どちらか一方にだけ責任がある訳ではないということだ。そういう意味で、2人の人間がたとえ衝突しても、また関係性を結び直して良い状態に戻り、そしてその象徴として何らかのモノが現れる / 変わる のは、お互いの変化の証として日常にありふれたことのようにも思える。


関係性には様々な種類があり、そしてこの世のすべては関係性の中にある。

より一般化して、人間の精神の働きを、川の流れのような何か、として捉えると、関係性の結び直しとは、
何らかの"流れ"と"流れ"の衝突を確認し、関係性の線引きを書き換えること。線引きを書き換えるとはつまり、不文律(暗黙の了解)をどこに設定し、目に見える線引きをどこに設定するか、それを書き換えること。
それはたいていの場合、痛みを伴ったり、本音の会話を伴ったりするわけだけれども、たとえば膠着状態の物語(関係性)に第三者が介入し、書き換えることには一定の意味があると思う。

こうした関係性は、1人対1人だけでなく、1人対所属しているチーム・組織や、1人と街の間、1人と自然の間など大きい単位でも成り立つのだと思う。

そうした、日常の生活の精神活動の"切れ端"が"モノ"として具現化され、我々の生活を形づくっていく。


奥行き / 物語 の無い空間とは何か?

その中で、「文化」を持たず、すなわち明確な「奥行き」を持たず、「文明の利器」としての「便利」「使える」「役に立つ」「世間で必要と言われるから」等の理由でできあがった空間は、奥行きが無い。それは人々がものごとを対象化し客観視し、自分と関係が無いと思うことによりできあがっている。

その人間性を失った空間は、"かたちだけ"の使われてる風・なんかやってる風であり、何の思いも無い分、一時の盛り上がりはあっても、結局は誰の目にも空虚にうつることになってしまう。
それが人間の欲望の成れの果てとも言えるだろう。

また一見文化がありそうでしかし中々それを感じられ無い空間は、「世間様に減点されないように」という消極的理由によって、何らかの美学による"カッコつけ"でも無く、「奥行き」までも「平面」化した空間、つまり三次元のものも二次元で描いてそれっぽく見えるように、四次元のものを三次元でそれっぽく表したような、"意味ある風"だけど内実は意味の流れが無い、象徴として機能してない「モノ」たちの空間(強いていうなら、暗黙のうちに世間に迎合したいという悲しい欲望を自己完結的に表すという"意味"を象徴するモノたちの空間。)として出現してしまう。


全く無いように見えても人間味は大抵どこかに存在している。それを大切にしたい。

ここまでの話の"空間"は"身体性の無い"空間とも言える。人間が身体をもって生きる限り、精密な生命は常に物語を織りなしこの世界に物語を放出している。それが生命としての常である。しかし、その生命性が失われているときがある。
だが、人間は身体をもって生活しているので完全に身体性の無い空間というのは中々あり得ないんじゃないかと思う。特に人間が暮らす空間・プライベートな空間ではそれはそうそう起こり得ないのではないか。

通常は、どんな人間も、文脈の中で、脈々と強力な意味の流れを汲んできた象徴としての"モノ"を少なからず持っているため、少々のミニマリストや大変な貧乏であっても、人間味(奥行き)は持ち合わせているだろう。

普通の人は、アルバムや写真や思い出の品、子供の頃のおもちゃやぬいぐるみ、を超えて、机や椅子、ペン、カーペット、クッション、ソファ、ライト、などなんでもかんでも、そこに奥行きのストーリーが存在する空間を出現させているのではないだろうか。

1人の人間がいれば、その人に付随した物語と、その象徴であるモノ(物質)がある。


象徴としてのモノに光をあて、それをツールにコミュニティを再接続する。

こうした"象徴"的なモノ(物質)を積極的に取り出し、社会という文脈にふたたび接続させていくことが、個別的であると同時に普遍的な物語を社会や地域コミュニティにつよい繋がりを生み、実生活で人間性を復権させていくという一連のプロセスになる。

反対にこうしたちょっとの物語も存在しないモノができあがってしまう現実が世にあるのは、特にビジネスや政治において、あらゆる人が妥協に妥協を重ね(特に誘惑や欲望に負け)、ビジネスの悪いところが出てしまったときに出来上がるのだと思う。

世の中を本当に動かす物質は数限られていて、意味や象徴や役割の直感が働くより先に、「モノ」をモノだけでひたすら展開・複製していくこと(資本主義的を不自然に使ったときの在り方)は、この世界を一見豊かにしているように見えても、見えない豊かさのところで負債を生んでいるのかもしれない。

「物語・身体性・奥行き」と「ものづくり」を両立させ、世の中に展開している多くの人々に敬意を表したい。




番外編


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