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信じてるこれは愛じゃなかったかもしれん

 くだらない、そんなのくだらない、と言いながら、自分もまた他人からの注目に渇望していることに気づく。  変わったと思った自分は、そこにおいて何も変わっていなかった。  小さい頃は、ただただ注目を浴びたかった。毎度のように1番に手を挙げて、何かすごいことを成し遂げて…芸能人になりたいとか、そんなことを言った日もあった。  高校生くらいにもなって、自分がルックスも中身もさして秀でた人間ではないと気づいた時、その前向きさは、歪んで目の前に現れた。今度はとてつもなく足を引っ張るように

    • 二項対立が邪魔臭えよ

      ある、ない。 たったこの二つの区切りが、どこまでも苦しくなってきた。久しぶりだ。 自分にないものを持つ奴はただただ妬ましい。 自分にあるものだって、他を見ればもっと優れたものを持ってる奴がいる。 じゃあ僕のアイデンティティってなんなんだろう。 ひとつとってみても、上で書いたみたいに、虚しさが僕を覆い尽くす。 このひとつひとつの織り成す集合体としての一人の人間、その自分こそがアイデンティティなのだろうか? その理屈でも、満足しない。 完璧主義ってやつなのか。 他人の目を認

      • 後輩のレポート下書き

        『哲学における方法的懐疑の普遍性』 (第一省察)  まず、私はデカルトの真理を追求するその姿勢と方法に激しく賛同する。彼がとった方法、「方法的懐疑」は人間誰しもが一度は撫でたことがあるような問いであると思う。文面で見れば難しいように感じるが、意外にも広く開かれた感覚だと言える。今風に言えば、この世界がシミュレーションで有るとする説が世間に知れていることは、これを裏付ける一種の証明ではなかろうか。私はこのレポートを通して、既に世に広く受け入れられるデカルトの方法的懐疑のその姿

        • 恋人という他人

           悲しいようで美しい話をしよう。なぜ愛が美しいのか、そういう話である。  見出しはこう表現したが、これは恋人に限った話ではない。特には家族、親友。友達にも言えることだろうか。こういう存在というのはよく、自他の区切りをつけることなく語られる。「いつもそばに居てくれて、自分のことのように話を聞いてくれる。」自分のことをわかってくれる存在とは、すぐに壁を無くしたくなってしまうものである。  しかし、悲しきかな、どんな人間も、自分以外は他人である。育てられた親は違うし、育てられた親が

        信じてるこれは愛じゃなかったかもしれん

          ただの悪口

          顔が好きなやつは顔と結婚すればいい。 肉体が好きなやつは肉体と結婚すればいい。 金持ちが好きなやつは金と結婚すればいい。 安定が好きなやつは安定と結婚すればいい。 好きになった人がタイプだ、 この言葉は純愛というものを正確に言い得ている。

          ただの悪口

          最後の1行が超大事。『俺が読む意味』

           ここで僕は、知識、論理、哲学、その他諸々の情報を取り入れるにあたって、自分の守るべき位置と、それらを取り入れる理由や意味を明確にしておきたい。他の人の言葉で、自分を見失うのだけはごめんだし。  まずもって、僕は理屈、社会、その他諸々、外部から後天的に得るものに特に意味はないと言い切る。ここで勘違いしてほしくないのは、理性だけに意味がないと言っているわけではなく、先天的に得た感性にも意味がないのだ。ただ、僕が言いたいのは、「今の社会が理性に対して期待している相応の価値」なん

          最後の1行が超大事。『俺が読む意味』

          通じ合えない

          言葉を交わせても、汲み取ってくれなきゃそれはコミュニケーションじゃない。本当の意味でのコミュニケーションをできる人間は、僕にはなかなかいない。何も、頭が良くなれなんて言ってない。頭なんていらない。理性なんていらない。必要なのは豊かな感性なんだ。 例えば、何かを綺麗だと思えるのは、汚いものを知ってるから。僕が希望を見出せるのは、僕の沢山の絶望を見てきたからだ。日々に埋もれている些細な絶望も悲しみも、喜びにも、僕はその全てに向き合ってきた。 「こういうことをされたら、言われた

          通じ合えない

          夢から覚める瞬間

          8:24 埼京線に無表情の群衆と共に押し合っている時、「あれ〜俺、人間だっけ?」と、思わず目が覚めてしまう瞬間がある。 沸々と怒りが湧き、その怒りが全て呆れとなり、やがて厭世的で、それはそれで逆になんでもできてしまいそうというか、やらかしてしまいそうな気持ちになる。 終わりだ。夢であって欲しかった。全てが夢で、弾けて仕舞えばいい。消えてくれ。 人為的で経済的な全てが気持ち悪い。 広告、ニュース、電車、並木通り、道、ビル、社会、全てが消えてくれればいい。

          夢から覚める瞬間

          娑婆よりの羨望

          きっとまだまだ行きつかない悟りの境地。覚束ないながら、その景色について僕は想いを馳せる。 ここからの全ては、老子の言葉や、俺の右脳の感じることに依る。 想像の範疇を出ないけども、「悟る」というのは、左脳の全てを捨てることであると思う。 石が石であり、水が水であり、木が木であるのは、区切りの良い場所で区切られ、分類され、そう名前をつけられたから。こういう数学的、論理的思考を司るのは、左脳である。 左脳を持つ生命体がいなければ、未だに、世界にはただひとつ、「世界」があるだ

          娑婆よりの羨望

          土足厳禁

          散歩、服、絵、書き物、俺の趣味は大抵否定され、バカにされる。 群がる烏合の衆からはみ出していることは確かだろう。内輪に収まらない人間は異常者扱いしたくなる集団心理はわからなくもない。子供の頃は誰しもそういうのは持ってたろう。そんなのは童の頃にもう捨てたけど。まだやってるなんて、本当にくだらない。くだらないな。 みんな異常だと思う。どこ見ても、まともなやつ、平凡なやつなんていない。みんな何かがおかしい。真面目すぎて話通じないやつ、倫理がかけてるやつ、夜通しバカみたいに踊る人

          土足厳禁

          脳内宇宙間浮遊

          真夜中。皆が眠りについた町にある家の屋上で。 街頭のジリリという音だけが響く、静寂の中。首の皮が千切れるほどにうんと上を向いて、両の腕をめいっぱいに広げ、星空を眺める。 目を瞑ると、そこは宇宙である。 においはなく、無音が鼓膜を撫でる。それはまるで湖の深い底にいるようだった。 暗闇。私はただ、何を身にまとうこともなく、その中を脱力して、浮かんでいる。意図的に何かを描くわけでもない、無作為に散らばる白い点描。遥か遠くの恒星を周回する惑星の微かな影が、逆光の丸い黒としてこの目

          脳内宇宙間浮遊

          破壊の先、本来あるべき姿へ。

          この際、労働とか、そんな社会的活動は、一切消滅してしまえばいい。 「働く喜び」 そんなことを言う人間は、今やもういない。 もうこれ以上の労働は、幸福のためになんかなりゃしない。人々の傲りや、怠惰、虚無だけが、満ちていく。 きっと、僕らの祖父母世代の頃は、まだインフラも不十分で、不便も多かった。戦後復興の種火は、猛々しい炎となり、働き手の魂を燃やし、彼らの労働が人々に便利さを還元する。「社会のため」「人のため」…なるほど、頷ける。 しかし、今となってはどうだろう。 人々の

          破壊の先、本来あるべき姿へ。

          野狐禅

          頭の中か、心の中かは分からない。 そこで、絶え間なく溢れては波打つ情景、感情。 誰も気づいてはくれない、僕の中に確かにある、感性と思考の宇宙。 「きっと同じ宇宙を見ている人がいるはずだ」と淡い期待を込めて。僕の宇宙を手で掬って、あなたに届けようと試みる。しかし、掬うというくらいだから、全てを手に収めることはできない。そしてまた、届けようと両手をあなたへ伸ばすその間にも、指の合間からこぼれ落ちていくものがある。結果として、届いたものよりも、掬えなかったもの、こぼしてしまったも