後輩のレポート下書き

『哲学における方法的懐疑の普遍性』 (第一省察)

 まず、私はデカルトの真理を追求するその姿勢と方法に激しく賛同する。彼がとった方法、「方法的懐疑」は人間誰しもが一度は撫でたことがあるような問いであると思う。文面で見れば難しいように感じるが、意外にも広く開かれた感覚だと言える。今風に言えば、この世界がシミュレーションで有るとする説が世間に知れていることは、これを裏付ける一種の証明ではなかろうか。私はこのレポートを通して、既に世に広く受け入れられるデカルトの方法的懐疑のその姿勢の有意性を、更に後押ししてみたい。
 さて、デカルトの方法的懐疑に関して、自己流ながら整理をしようと思う。私は方法的懐疑には二種類有ると思う。
 ひとつめに、物質世界に対する方法的懐疑である。それは例えば、私たちがいま目の前にしているこの景色は本当にそこに存在するのか。そしてそこに存在する人間は、本当に意思を持って存在しているのか。視界にない間彼らはどう存在しているのか。私たちが実際に触れることができる物体、言わば「空間」を疑うというものである。
 ふたつめに、人類史が築き上げてきた観念、通念に対する方法的懐疑である。授業内で触れられた数学的真理に対する方法的懐疑は、こちらに該当するだろう。数学的真理の他に、「社会の存在」や「神の存在」(神が人々より先に本当に存在したなら無礼極まりないことであるが)「コミュニティの存在」などを疑えば、こちらに該当する。たしかに、数字を以てこの世の物理法則を計ることはできるし、社会が回るおかげで今の現代社会や技術がある。しかし、これを実際に存在するものとして知覚するのは、よくよく突き詰めれば難しいものなのである。仮に数学的真理がなくても、人間社会が回らなくても、地球は回ったのだから。人間が生きていくには必要だが、宇宙規模で見れば全く必要がない…言うなれば、存在しているようでしていない、していないようでしているといった、実に曖昧な存在であろう。それが人間の積み上げてきた観念や通念である。
 整理も終わったところで、この懐疑的方法に通ずるアプローチを以てこの世の真理を追求した哲学者を、私が知る限りで二人を挙げる。これ以降は、先入観を一切捨て去り、この世の全てを疑う姿勢をとった哲学者を挙げつつ、デカルトのアプローチの普遍性について後押ししていこう。
 私が知る限りで、一人目に老子がいる。彼は、「無為自然」を唱えた中国の哲学者で、諸子百家のうちの道家を開いた人物である。彼の唱えた「無為自然」は、この世の全ての輪郭を疑い、全てが一つになる領域、乃ち「道」にこそ真理があるのだというものである。
 数学的真理、社会、過去、未来、自、他といった人間の作り上げた概念はもちろん、石、川、木といった空間を分断する原因となった、物質的世界につけられた名前、乃ち、物質の持ちうる輪郭の全てまでをも疑った。それらを人間が後付けした「人間様にとって都合のいい、世界から一人歩きした解釈」でしかないと位置付け、そこに真理がないことを説いた。人間の意識が存在しない大昔、そして存在している今でさえ、すべてのものは輪郭を持たず、ひとつに溶け合い、混沌とした世界であるということを説いたのである。この姿勢は、デカルトの方法的懐疑から真理を導こうとする解釈とかなり接点があるだろう。
 次に、ソクラテスである。老子ほどではないが彼もまた、常識を疑った哲学者のうちのひとりであろう。知識家、ソフィストの台頭する古代ギリシアで、「知る」ということの核心を求め続けた。ソフィストは理屈、具体的に言えば、ある物体や概念のシステムや構造、そして輪郭を知覚することでそれを「知る」ことと位置付けていた。それに対してソクラテスは、物や概念の内包する概念、そしてその概念がまた内包する概念、といったように、永遠にひとつのものを問い続けることができるということから、「人は真には知り得ない」という真理、つまりは「無知の知」の境地を唱えたのである。これは、数学的真理や社会、はたまた石や川といったものを一口でそう表すことに疑念を抱き、そのものの存在を真に証明するものはなんなのかを問い続けたその姿勢で、デカルトの方法的懐疑と一致することだろう。
 彼らが自らの哲学を追い続けることができたその志の中には、一口に言えば、通じて「常識を疑う」といった姿勢があったのだ。ここでは扱うことができなかったが、彼ら3人と多くの接点がある哲学者として、釈迦やナーガールジュナと言った仏教の祖にも、空間や概念の認識そのものを疑う姿勢があった。これは授業で取り扱った他の哲学者にも言えることだろう。空間や概念を疑うと言ったアプローチのその他にも、労働を美徳とする常識に異議を唱えたラッセル、多くの人に囲まれて生きることこそが美徳だとする常識に異議を唱えたショーペンハウアー、あげればキリがないものである。これはほとんどの哲学者、いや、全ての哲学者と言っても過言がないほどに、彼らが「常識を疑ってきた」ことの裏付けである。
 この授業でデカルトを深く学んだことを踏まえて、彼とその他多くの哲学者に通ずる、「真理の探究者」としての姿勢をこのようにまとめて締め括る。

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