見出し画像

娑婆よりの羨望

きっとまだまだ行きつかない悟りの境地。覚束ないながら、その景色について僕は想いを馳せる。

ここからの全ては、老子の言葉や、俺の右脳の感じることに依る。


想像の範疇を出ないけども、「悟る」というのは、左脳の全てを捨てることであると思う。

石が石であり、水が水であり、木が木であるのは、区切りの良い場所で区切られ、分類され、そう名前をつけられたから。こういう数学的、論理的思考を司るのは、左脳である。

左脳を持つ生命体がいなければ、未だに、世界にはただひとつ、「世界」があるだけだった。石は石として区切られないし、ましてや人も人として区切られなかった。全てがひとつに融け合う世界で、世界そのものである自分がただ揺蕩う。

そう、この世界を「生き物」という視点から「観測」することをやめ、左脳を捨てたその時に、真の世界の姿を「感じ」、「その一部になる」ことができる。これこそが悟りだと。

僕は、「感性」こそが人間の真であると本気で信じているが、結局は「社会」だとか、「自」「他」の不調和だとか、そういう区切られたもの、「理屈」を前に頭を抱えてしまう。

果てしなく強い感性を持つ中でまた、それに歯止めをかける理性も持ち合わせてしまっている。

この理性を捨て、不調和も二項も自他もなく、全てがひとつに融け合う世界で、僕はぷかぷかと浮いていたい。

まあこうして必死に「理屈」をこねくり回している間はきっと無理なんだろう。
左脳の存在しないはずの悟りの境地を、左脳で練った言葉でしか語れないというこのジレンマに挟まれているうちは。


ただ考えることなく、感じていたい。


僕はもう、とっくに疲れてしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?