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恋人という他人

 悲しいようで美しい話をしよう。なぜ愛が美しいのか、そういう話である。
 見出しはこう表現したが、これは恋人に限った話ではない。特には家族、親友。友達にも言えることだろうか。こういう存在というのはよく、自他の区切りをつけることなく語られる。「いつもそばに居てくれて、自分のことのように話を聞いてくれる。」自分のことをわかってくれる存在とは、すぐに壁を無くしたくなってしまうものである。
 しかし、悲しきかな、どんな人間も、自分以外は他人である。育てられた親は違うし、育てられた親が仮に同じだったとしても、歩んできた1日1日というのは、必ず違うものである。それが違うのであれば、体験したもの、そしてそこから培ってきたものも全くもって違う。そんな人間に、自分の気持ちが分かると、本気で思ってしまう時もあるだろうが、そんなことはありえない。他人は他人の感じること、見えている景色を、同じ経験を重ねてきた場合を除いて、100%で共有することはできない。つまり、人というのは、そういうところで孤独なのである。あなたにしか分からないことが、あってしまうのだ。
 (今更だが、僕は当たり前のことを言っている。分かりきったことを言っている。しかし、僕が口にする言葉は、あなたがいつからか目を逸らしてきたり、忘れたり、ないがしろにしてしまっていることが多いはずだ。僕は読み手に忘れられた当たり前のことを、再び「当たり前だ」と突き付けるのだ。あなたが思い出して打ちひしがれてしまう前に。)
 だがそんな人々の孤独の中に存在するからこそ、愛というものは美しいのである。
 愛とは、赤の他人が赤の他人を思いやり、寄り添い、分かるわけもない赤の他人の人生を分かろうとする、無謀な取り組みである。言ってしまえば、「赤の他人だ、興味がない」と切り捨てることさえ可能なのだ。
 しかし人々は、人類史を通しても、そんな無謀だとわかりきった取り組みをやめることはなかった。そこに美しさがあるのである。
 ほとんどの人間は、他人の具体的な経験による痛みというのを分かることはできない。しかし、抽象的な経験による痛みというのは分かることができるのだ。ここでいう具体的な経験は例えば、テストで赤点をとった、恋人と別れた、仕事がうまくいかない、など、日常的な経験のひとつひとつを指す。抽象的な経験というのは、言わば喜怒哀楽の感情である。
 日々から切り取った何気ない具体的な経験というのは、かなり限定的で、他人と共有することは難しい。しかし、喜怒哀楽のひとつひとつは、人間誰しもが経験したことがあり、そこから得られる痛みや幸せというのは唯一普遍的で、共有可能なものである。
 具体的な経験の接点や喜怒哀楽を通して、赤の他人にどこまでも寄り添おうとする、その度合いによって「恋人」「親友」「家族」といった括りがある。
 だからこそ、就活で苦しむ彼女と、就活もわからぬ彼が、一緒に苦しもうとすることができるのである。社会から少し逸れようとする彼の孤独の寂しさを、僕は必死に理解しようと尽力できるのである。お前らのために死んでやれると、そう言えるのである。
 分かるはずもない他人を分かるまで分かろうとする、寄り添おうとする、代わりに命を張ってやれる、そんな無意味さの中にこそ、愛の美しさはある。
 自分が独りだと気づいた人間は次に、人間は皆孤独だということに気づき、人生の暗闇の中でこそ知ることができる孤独に生きる苦しみや悲しみ、将又、孤独の中に存在する小さな幸せを携え、多くの人々に寄り添う真の優しさ、真の愛となるのである。

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