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信じてるこれは愛じゃなかったかもしれん

 くだらない、そんなのくだらない、と言いながら、自分もまた他人からの注目に渇望していることに気づく。
 変わったと思った自分は、そこにおいて何も変わっていなかった。
 小さい頃は、ただただ注目を浴びたかった。毎度のように1番に手を挙げて、何かすごいことを成し遂げて…芸能人になりたいとか、そんなことを言った日もあった。
 高校生くらいにもなって、自分がルックスも中身もさして秀でた人間ではないと気づいた時、その前向きさは、歪んで目の前に現れた。今度はとてつもなく足を引っ張るようにして、現れた。
 「俺のことが嫌いなやつのことは俺だって嫌いさ」「誰も見てくれないのならひとりで生きていくしかない」そうして、僕は心を閉ざしていった。
 ひとりで自分に向き合うことが普通になり、多くの人間が死んできた峠も越えてきた。もう僕が人に縋ることは何もないと、そんな自信を抱いてまた世の中に繰り出した。
 ただ、それは全くもって違っていたらしい。慢心にすぎなかったらしい。無理に他人からの視線を排除し、ひとりで生きていくことで、問題を、どうしようもないほどの歪みを、見て見ぬ振りをして後回しにしていただけだった。この歪みの根幹の治療はなにもできていなかった。
 再度、深くまで人と関わろうとすると、他の人間が褒められている時、「それに比べて…」と、自分が貶されるような気がする。「誰もお前のことなんか。」懐かしい恐怖がまた、自分の前に現れた時のあの焦燥感は、今も心の中の靄として自分の道を曇らせている。
 きっとこの歳まで一度も僕は教わらなかった。無償で与え続けることを。見返りを求めずに、ただ自分だけが与え続けることを。そうして初めて、愛であるということを。
 まだ鮮明に思い出せないのである。僕が何故ここまで注目されることに執着しているのか。
 単純でありながら、一少年には強烈すぎるほどの一言が、きっと自分の奥深くから僕を歪めているんだろう。それが何なのか、僕は思い出せないでいる。忘れたはずのそれに、未だに強く縛られている。
 そもそも人間は皆孤独だから、真には分かり合えないのだから、家族であろうと赤の他人に期待することが間違っているのだ…そう思うことが楽になることの一つの答えとしてあるかとも思うが、これは腑に落ちてくれない。この解答は、まだまだ長いであろう余生を生きていくには、少し寂しすぎるのだ。

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