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通じ合えない

言葉を交わせても、汲み取ってくれなきゃそれはコミュニケーションじゃない。本当の意味でのコミュニケーションをできる人間は、僕にはなかなかいない。何も、頭が良くなれなんて言ってない。頭なんていらない。理性なんていらない。必要なのは豊かな感性なんだ。

例えば、何かを綺麗だと思えるのは、汚いものを知ってるから。僕が希望を見出せるのは、僕の沢山の絶望を見てきたからだ。日々に埋もれている些細な絶望も悲しみも、喜びにも、僕はその全てに向き合ってきた。

「こういうことをされたら、言われたら、悲しいんだ」とか「嬉しいんだ」とか。

人の気持ちなんて自分の経験した気持ちの幅でしか分からない。だから、親を亡くした人の気持ちを僕は分かってやれない。金持ちの気持ちなんて分かりっこない。僕だってまだまだなんだ。

そんな僕ですら通じ合えない人間が多いことが、とても悲しい。独りだと思ってしまう。「悲しい時は相談してよね」とか、そんなのも無駄だから、俺はしない。分かりっこない。「考えすぎだ」と一蹴されて、「ああ、この人も分かってくれないのか」と、暖簾に手押しをしたような気分になる。大抵の人には相談してもしなくても、独りなんだ。「考えすぎ」なんて甘いもんじゃない。向き合ってんだ。

だから、俺が星空、草原、朝焼け、夕陽、そんなものを見て涙できる代償は、それ相応にある。それは誰とも通じ合えない孤独。同じものを見ているはずが、自分というスクリーンを通した時、僕のものだけが涙できるほどに美しい。幸せだ。もちろん幸せだ。不幸だとは全くもって思わない。でも悲しいんだ。

だからって、他の人々をどうこうしたいとかじゃない。薄っぺらな愛、薄っぺらな遊び、薄っぺらな感性でいて幸せだと思えるなら、それは幸せなんだ。中学生の頃がそうだった。一度も落ち込まなかった。向き合ってこなかったから。楽観的で、アホだった。楽しかった。人間らしさには欠けるけど。

そうだ、なんでもいい。わかってる。きっとこれから先も、どこに身を置いたとしても、1割除いて独りなんだ。
その1割を大事にする。9割を微笑ましく眺める。それでいいじゃないか。分かってるはずなのにな、またこんなところに来てしまって。おかしいな。

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