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【ちゃんがくれたもの。僕が生きていく意味】 〜ちゃんへ愛を込めて〜


先月、息子同然に愛していた愛犬が、亡くなりました。

17歳でした。

闘病生活も順調で、老犬にも関わらず元気で逞しい姿をいつも見せてもらっていました。

別れは突然やってきました。

連日体調の悪化で夜間緊急病院やかかりつけの動物病院にタクシーで向かう日々。

そして発作はやまず、手足に力が入らなくなり、水も飲めない状態になってしまいました。

苦しみを少しでも取り払ってあげたく、できることを全部先生に聞きましたが、
眠らせてあげることしかできないと。

坐薬と鎮静剤をいただきました。

もはや限界だということは心のどこかではわかっていました。

心のどこかでは。

先生は最終手段についても話してくださいましたから。(安楽死など)

その晩、坐薬と鎮静剤を何とか与え、なんとか眠ってもらうことができました。

そして、そのまま目をあけることはありませんでした。




僕は、わかってませんでした。

別れはまだ先だと思っていたんです。

限界なんだとわかっているようで、全くわかっていませんでした。

これから長い闘病生活が、介護の日々が始まるんだとさえ思っていたんです。

ちゃん(ミルちゃん)が亡くなったその朝は、とても「穏やか」でした。

苦しい大変だった闘病生活を見てきたから。

心臓病、腸の病気、脳の病気、認知症、様々な病と戦ってきた数年間。

苦しまず、眠ったまま、大好きだった場所で、大好きだった僕ら夫婦がいる時に、
そのそばで旅立てたこと。

かっこよく思えた。

その晩眠ってくれたあと、一言も鳴かず、何も言わず、そのまま旅立った。

とても複雑でした。

戦い抜いたちゃんは解放されたんだと涙しました。
穏やかに旅立てたことに涙しました。

その命を全うしたのだと。
寂しく辛く悲しいと同時に起きる複雑な感情です。




そしてちゃんを安置し、数日後、火葬の日がやってきました。

その日までに花を手向けたり、手紙を読んだり、一緒にみんなで写真を撮ったり
お別れ会もしました。

そして優しい火に包まれて天国に旅立ち、
小さな体はより小さくなって家に帰ってきました。

あとは純粋に寂しさ、悲しさがあるだけ。

その時はそう思えていました。

問題はその夜起きました。

いや、今思えばちゃんが亡くなったその日から、僕はすでにおかしくなっていたように思います。

ちゃんが亡くなってから火葬までの約3日間、
僕は人生で一番泣きました。

僕の体にこれほどまで流れ出る涙があるのかと驚くほどでした。

一日中泣くという状態がずっと続いていました。

写真を見れば泣き、外を歩けば散歩した面影に泣き、亡骸を見ては泣き。

その時は正直冷静ではありませんでした。

あらゆる過去から、もしかしたらあの時のアレがどうのこうのとか、
あの時ああしていればとか、もっとできたことがたくさんあったとか、
どうして自分はいつもこうなんだとか。

後悔などネガティブな感情でいっぱいでした。

それでも火葬の日まではまだ自分を保てていました。




火葬が終わったその日の晩、ついに心が壊れました。

今までに経験したことのない強大な「強迫観念」です。

それもこの三日間感じていた自責や後悔や罪悪感や強迫観念を
はるかに上回る地獄の強迫観念に囚われました。

それは、
「火葬されている時、ちゃんはもしかしてまだ生きていたんじゃないか」

火葬後の夜中、外を散歩しながら涙している中、
あろうことかそんな疑念を感じてしまいました。

一度感じてしまった疑念はもうその勢いがおさまる事はありませんでした。

その結果それに支配され数日取り乱し、
自分がちゃんに痛い思いを熱い思いをさせてしまったんじゃないかという妄想に囚われ続けました。

僕には友達がほぼいなく家族とも疎遠で妻と愛犬が僕の全てでした。

最愛の家族であり親友であり息子である愛するちゃんを
もしこの手で最後に手をくだしてしまったなんて考えようものなら
僕にとっては絶望を通り越した絶望に他なりませんでした。

顔向けできないどころか、自分を一生許せない。

こんな地獄は初めてでした。




その日以来約2〜3週間ほど、動悸と緊張感がおさまらず、眠る事はできず食事は喉を通らず、体重は5キロほど落ち、心身ともにボロボロになってしまいました。

あまりにも動悸と緊張感が強く、うつのような無気力感なども伴い始めて、
死んだ方が楽だとさえ思ってしまうほどでした。

さらにタイミングが不運なことに、
こんな状態でしたが、妹の結婚式が控えていました。

そんな状態でしたが妻に支えられなんとか出席したのですが、
(出席は相当悩みましたが)
それがさらにメンタルにはよくなかったようです。

祝福できたことは本当によかった。

大事な家族にも会えた、それはいいんです。

そうではなく、僕が想像していた以上に、
ボロボロな心には些細なストレスが膨大なストレスになってしまいました。

些細なストレスによって、
あらゆる後悔や罪悪感などネガティブ感情が勢いを増し、
過去に対する自分の行いや、黒歴史までがフラッシュバックしてきました。

いつも感じるはずのないこと、忘れていたようなこともまでです。

心がボロボロ(動悸や緊張感、うつ、ショック後など)の状態の時は、
恐ろしいまでに物事を楽観的に考えることが全くできなくなります。(恐ろしい体験でした)

ちゃんのことで頭と心がいっぱいなのに、
その上ネガティブ感情が押し寄せてくる。

自分が自分でなくなるようで、恐怖でいっぱいになりました。

孤独感や疎外感、死への恐怖や大切な人を失う恐怖、罪悪感や自責の念、
それらが波のように押し寄せ、
とにかくこんな絶望感を味わったのは生まれて初めてでした。




ちゃんを亡くした、
そして強迫観念にやられた、
そして結婚式、
このトリプルパンチに見事に心は打ち砕かれました。

突然の別れ。
僕は別れはまだまだ先だと思っていました。
別れが突然やってきて、
強迫観念に負け続けてしまった日々がよみがえり、悔やみました。
ちゃんにしてあげられたこと、
してあげたかったことだらけだったからです。
後悔の念に押しつぶされました。

そして何より僕の心を壊した最大の衝撃は強迫観念による(妄想による)疑念、自責、罪悪感です。

何より辛いのは、強迫観念によって「穏やかなる事実」を塗り替えられたこと。

事実としてちゃんとの別れはとても穏やかで安らかで、
むしろ亡くなり方別れ方はむしろ言い方はあれですが理想的だったということ。

本当はわかっているんです。
痛み苦しむことなく、眠るように亡くなったこと。
穏やかな表情でした。

みんなの愛の中旅立った事実がそこにあったんです。
間違いないのです。

それを強迫観念に塗り替えられたことが悔しくてたまらないのです。

妄想だとわかっているのに疑念が消えなかった。
それが何より辛い。

ちゃんとの愛の思い出が
ちゃんの写真を見るのも
罪悪感のせいで辛くなってしまった。




悔しくて悔しくて悲しくて仕方なかった。

ちゃんを失った喪失感だけで胸はすでにいっぱいなのに。

火葬当日まではまだ心は壊れてはいませんでした、その喪失感、悲しみに打ちひしがれていただけ。

ちゃんに向かって手紙を読んだり、挨拶をしたり、
泣きながらも体を撫でたりして過ごしていました。

火葬後、ちゃんが本当にいなくなった時、
きっと実感した。

本当に亡くなったんだって。




僕はきっと、ちゃんが亡くなったことを受け入れられていなかった。

ちゃんが亡くなったことはわかっていたし、
だからこそ花を手向けたりお別れ会をした。

でも、心が追いついていなかったんだと思います。

当たり前すぎたんです。

そばにちゃんがいた日々が。

僕は家にいることも多く、ちゃんがいる時間が当然で、お世話することも全部が日常で。




その受け入れられなかったところも強迫観念に囚われた原因なのかなと。

トリプルパンチ(ちゃんの喪失、地獄の強迫観念、結婚式)の後も尚、動悸や緊張感やうつっぽさは消えなく、眠れないし食べれないといった状態が続いたため、精神科に行きました。

現在は処方された薬で動悸と緊張感はだいぶなくなり、食欲も戻ってきて、眠ることができています。

強迫観念の恐ろしさを改めて痛感しました。

ただ悲しい、寂しいに加えてさらに心を抉ってくる恐ろしさを実感しました。

動悸と緊張感があったり抑うつがあると、まともに考えることができなくなるということを実感しました。

知識として知っているのとでは訳が違いました。

経験して初めてわかる絶望というものでした。

僕は自殺する人にはその人にしかわからない苦しみがあるということを知っているつもりでした。
でもこれは経験しないと多分理解できない。

自分が自分で無くなる感覚です。
視野が完全に塞がります、プラス思考だとかポジティブシンキングだとか、その状態では無意味でした。

悲観的なことが暴走し止められません。
まさに絶望でした。




僕はわかっているようでさまざまなことをわかっていなかったと痛感しました。

色々強迫性障害やネガティブで弱い心と向き合ってきた方でしたが、
あっけなく崩れ去り、「鬼の所業」(強迫観念や歪み、妄想、ネガティブなど)がいかに恐ろしいものか知りました。

人が「普通」でいられることは当たり前じゃないと知りました。

その「当たり前」は一瞬で崩れ去ることがあると知りました。

どんなに強靭な人でもきっと起きうる。

体調が最優先なのだということも知りました。
(動悸、緊張感、抑うつの前ではまともに考えることもできなかった)

僕は思えばちゃんが亡くなった日からずっと寝不足でした。

その前からかもしれません。
夜間病院や通院などの日々でした。

寝不足の状態と悲嘆、喪失、悲しみ、寂しさ。
その上、自責、後悔、罪悪感。

その弱った状態は、まさに強迫性障害が最も力を発揮する暴走する。

そして強迫性障害という妄想の鬼に心は支配され囚われてしまえば、
体調や感情の状態からして負のスパイラルに飲み込まれて、
抜け出すのは相当難しくなる。

今だからわかります、なるべくして心は壊れたのだと。

思考も感情も感覚も行動も、まともでいられるはずがなかった。

その上動悸と緊張感で眠れないし栄養も取れない、ますますひどくなる。
怖いことです。




ちゃんが亡くなる前の自分とはまるで別人、それどころか廃人みたいになってしまっていました。

ペットロス症候群について調べて知っていたにもかかわらず。
強迫性障害について対策していたにもかかわらず。
人がネガティブなことに囚われやすいことを知っていたにもかかわらず。

僕があまりにも弱かった。
いや、甘すぎた。
僕はいつもそうだった。

今だからわかることがあります。
自分がこうなったのはなるべくしてなったということ。




僕は自分が思っている以上に歪んでいたのだと思っています。

自分ではそうじゃないと思っていた、でもそれがもう頭の硬さだったのだと今は思います。

思えばプライドも高いし完璧主義だし、思い悩んで反芻してばかりだし、
悲観的で逃げてばかりの人間でした。

人に嫌われるのが怖くて人を避けました。
友人とも自ら距離を取り疎遠になりました。
家族とも。

心は常に強迫性障害にばかり向いていて、心ここに在らず、
今を生きるより過去にばかり縛られて生きていました。

知識を入れてわかったふりだけして、行動は何も変わっていませんでした。

わかっているのにわかっていない状態、
いつも気づいた時は何かを失った後でした。




やらかして失敗して後悔してばかり。

そしてそれに対して行動すればいいのに、逃げてばかりで、楽な方へ現実逃避を正当化ばかりしてきたように思います。

年々歪んでいきました。

自分はむしろ良かれと思って生きてきて、歪んでいることに気づいていなかったかもしれません。

神経質はより悪化し、神経症はより自分を蝕んでいきました。

今回自分がこうなってしまったのも、自分の歩んできた結果、なるべくしてなってしまった。

心が壊れて絶望して初めて気づいたことがたくさんありました。

いつも僕は気づくのが遅い、遅すぎて自分が嫌になる。

自分がいかに神経症に囚われ、いかに良くない状態であったか。

強迫性障害に人生をどれだけ支配されてきてしまったか。

ネガティブ思考感情に囚われているか。




僕はこの絶望には意味があると信じることにしました。

今回の出来事です。

ちゃんを失い、その上自分の神経症ゆえの、強迫観念に囚われた地獄です。

強迫観念という妄想嘘はまさに鬼の所業だと思います。

事実を捻じ曲げどんな穏やかなものも地獄に塗り替える地獄の所業。

ありえないような疑念に心が支配されてしまう。

実際死に物狂いで強迫性障害と向き合ってきたのにもかかわらず、囚われてしまった。

地獄の強迫観念のトリガーとなってしまったのは、
「もう取り返しがつかないことへの後悔、罪悪感」
(僕の身に起きたありえない疑念妄想)

それが大事で愛していて何より大切なものであればあるほど。




人の心は壊れてしまうとそれこそ泥沼にハマるようにできている。

そこにハマっている時は生きていること自体が苦しみに感じてしまう。

幸せというものが存在するとしたらそれは「穏やかな心」だと僕は思います。

そしてこの泥沼状態はその対極だと思います。
穏やかの正反対です。

心が狂い鬼に支配されるという絶望。




絶望したら終わりかといったらそんなことはないと、今は心から思っています。

一見地獄の底なし沼に見える鬼の所業、
この地獄の迷路には幸い出口があると知ることができました。

アニメのように鬼を倒して消し去ることはできないですが、
自分を受け入れ、鬼にとらわれないように、脅威でなくすることはできる。

僕の場合はありえない妄想のようなものも含め、あらゆる後悔、自責、罪悪感、などに苛まれました。

強迫観念に囚われていた自分への怒りもある。悔しいし情けない。
僕は強迫性障害に神経症に負けないために努力してきたつもりだった。

でも、結局ちゃんがそばにいる間に、それは叶えられなかった。
もっと、
もっとしてあげれたことがたくさんあったのに。
できていたはずなのに。
わかっていたはずなのに。



今は絶望を力に変えその先にいくと、
絶望という鬼と向き合おうと思えている状態になれています。
そばでずっと支えてくれた妻のおかげです。
自分を見失わず、真実を見失わずにすみました。

妻の支えがなかったら、
どうなっていたかわからない。
それを考えると怖くなる。

なんとか踏ん張ることができました。
ちゃんが父ちゃん頑張れって言ってると言ってくれました。
二人のおかげで今、僕は生きています。

僕は愛に生きた自信まで失われたわけじゃないのです。

愛に生きた想いまでは絶対に惑わされやしない。

その信念は変わらない。
絶対に惑わされたりするものか。
愛だけが真実だと僕は知っている。

鬼の所業というのは愛という真実の対極、真っ赤な嘘、妄想に過ぎないのだと知っている。




鬼の所業による絶望は本当に本当に恐ろしいものでした。

自分の中にいるのですからピッタリとくっついて離れません。

でもその絶望にも意味があった。

この痛みが気づかせてくれたことは、僕を生まれ変わらせる生きる力でした。

絶望しないと気づけなかった。

それくらいの衝撃が必要なくらい歪んでいたのかもしれません。

受け入れたり、手放したりすること。
鬼の嘘に囚われてはいけないということ。
揺るがない愛だけが唯一の絶対的な真実だということ。




ちゃんが教えてくれた。
ちゃんが与えてくれた。
ちゃんが救ってくれた。

僕はちゃんに守られていた。
クヨクヨするなって言ってる。

ちゃんは強かった、
僕がこの世で一番尊敬する愛する息子。

ちゃんはみんなの幸せしか考えていないことを知っている。

僕の中には、ちゃんには伝えても伝えきれないくらい想いで溢れています。

まだまだ、
まだまだずっと一緒にいたかった。
まだまだしてあげたかったことがたくさんあった。
やりたいことがたくさんあった。

でももうクヨクヨしないよ。

ちゃんが安心して旅立てないもんね、わかってる。

全部わかってるから。




だから僕はちゃんに誓います。

ちゃんが教えてくれたこと、
ちゃんがくれた愛に誓う。

諦めない、と。
自分を諦めないと。
ちゃんがそばにいる間に自分の病気を克服したかった。
叶えられなくてごめん、本当に自分が嫌になる。
それでも、ちゃんはきっとそんな僕のことをそばで支えてくれていたんだもんね。
わかってる。
だから諦めない。

この「いたみ」を大切にする。

絶望は終わりじゃない。
自分の中の鬼と向き合うことを諦めない。

絶望は愛の賜物だと。
絶望を力にして、
どんな鬼の所業、絶望がこれから起きてもその先にいくと。

絶望の先に、今を生きる穏やかな心があると教えてくれた。

大切な人を大切に幸せにする、ちゃんが愛したものを一生守る。
そのために全力で生きると。

愛だけが信じたものだけが唯一にして絶対の真実だと知っている。

そこに穏やかな心があることを知っている。

ちゃんの想いはずっと共にある。
ちゃんの愛を一生繋いでいく。

ちゃんが教えてくれたこと。
ちゃんがくれたもの。

絶望(鬼)と向き合い、生き抜くこと。
生きる力、生きていくということ。

ちゃんのようにかっこよく生き抜く。

これが僕の生きる意味。

愛の真実だけを信じ抜ける自分に僕はなる。

誓うよ、ちゃん。
大切なことを教えてくれてありがとう。

穏やかに、
愛に、あるがままに、
今を全力で生きていきたいと思います。

ちゃん、
生まれてきてくれてありがとう。
愛を込めて。



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