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映画『プーと大人になった僕』感想

予告編
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過去の感想文を投稿する記事【42】


 次回(3月31日)の金曜ロードショーで放送予定の本作。
実をいうと、劇場公開当時(5年近く前?)の感想だから、内容はほとんど覚えてなくて笑。読み返してうっすらとは思い出した程度……だから感想文の答え合わせも兼ねて、僕自身もオンエアを観てみようかと。

日本語吹き替え版は未見だったしね。


中途半端な知識が一番の敵だった…


 ここまで有名な作品の実写化となると、それまでに触れてきた媒体……国によっては誰が訳しているのか、誰が吹き替えたものを観ているのかによって、事前のイメージに大きな差がついてしまうはず。作中の「ヒィタチ」とかのくだりも、人によっては「バックスーン」とか「スグモドル」の方を先に想像する人も多いはず。僕の友人の一人も、偶然目にしたTVスポットに対して「あんな年寄りみたいな声だったとは」と驚いていたし、プーさんを愛するが故に「観る勇気が無い」と自身が持つイメージが崩れることを懸念している人もいました。そんな人たちに敢えて言うならば……観てから考えてもイイんじゃない?笑。



 こんな言葉は実在しないんだろうけど、なんていうか、現実と虚構(≒ファンタジー)の境界線みたいなものが上手く使われていたように思えます。100エーカーの森の中か否か、というのはとても分かりやすいですが、たとえば大人になったクリストファー・ロビン(ユアン・マクレガー)が、くまのプーと話すシーン。二人の周囲が垣根で囲われてたり、或いは他の人物が映り込んでこない等々、その空間が外界と隔絶されていたり、二人だけの世界かのように描かれていたような印象でした。

だからこそ、その境界線……というか『くまのプーさん』のお約束が破られる瞬間がより印象的になったのかな? この辺は好き嫌いもあるでしょうが。まぁその話は後ほど。



 クライマックス。書類を無くしてしまい落ち込む娘を慰めるクリストファー・ロビンは「僕はおつむが弱いから」と、プーと同じことを言います。先にハッキリと言ってしまうと、100エーカーの森、或いはくまのプー≒クリストファー・ロビンの心情をそのまま具現化したようなものなんじゃないかな、と思わされたんです。

冒頭、プーは霧に迷った上、仲間たちを見つけられない。それはまさに当時のクリストファー・ロビン。彼自身が迷い込んだ時にプーが姿を消したのも、”自分のことすら見えていない” というある種のメッセージ。よくある葛藤表現として出てきがちな “心の中の天使と悪魔” じゃないけれど、ティガーやイーヨーら仲間たちの拙くもド直球な言葉に、心というか我を取り戻し、プーと仲直りした時には森が晴れている……。森の様相も、プーの有り様も、全てが主人公とリンクしているように思えてくる。これは、みんな大好きくまのプーさんたちがファンタジーの枠を飛び出し(これまでの常識を逸脱し、)現実世界で大冒険!的な話ではなく、クリストファー・ロビンという誰もが知る “男の子だった” 人物の視点を通して、大人なってしまった人たち、もとい子供の頃の自分を忘れてしまった・見失ってしまった人たちに、自分を見つめ直すことや愛しい存在に気付くことの大切さを伝えてくれるような作品だったのだと思います。



 「ビジュアルが……」「声が……」「物語が……」というのはよくわかる。それは仕方ない。白状すると、僕もプーさんたちが(クリストファー・ロビンの娘と話すのは、まぁ娘だしアリなのかな? それはともかくとしても)現実世界で喋り出した瞬間は割とショックを感じてしまいました。でも本作のプーさんたちのキャラ感や雰囲気は特に変わってはいない。みんなが大好きなプーさんのままだったんじゃないかな。

たしかに、”クリストファー・ロビンの脳内での虚構” だとか、“本の中の物語” という大前提ありきの物語だとは思うから、観ていて変な感じもしました……。でもまぁ、”崩れ落ちたアルファベットの文字を登る” とか、若干メタ的な瞬間もアニメ版にはあったし、多少はそういうのもアリなのかな?

中途半端な知識のせいで、余計なことばかりに意識が逸れてしまいましたが、楽しい作品だったと思います。『くまのプーさん』に詳しい方の意見も聞いてみたいなぁ。


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