音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 9/19

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指揮者の前に、肘はあるけれど背もたれが無い奇妙な椅子が一脚あり、手首と足首を固定する鎖がついていた。
「座って」
と言われたので言う通りにする。座ってみて、背もたれが無いのは棺がつかえないためだと分かった。しかし、ということは私はこれから背もたれのある椅子には座れないのだろうか、ゴミ捨て場で変なものを拾ってしまったために。
「念のため」
と言って技師がちょろちょろと動いて私の手首足首を椅子に固定した。その手つきは蜘蛛が自分の身体に巣を張っていくようなおぞましさを感じた。固定が完了すると、少しあのマルタ達に近付いた気がして、喉元にカッターを突きつけられたような切迫感がこみ上げてきた。
 いざオケに相対してみると「死ぬかもしれない」という恐怖がぐわんぐわんと頭を揺らした。死ぬとしたら痛いのだろうか。しかしもう指揮者のタクトは今にも振り落とされそうで技師に聞く余地は無い。私は嘔吐しそうになるのをこらえ、ぎゅっと目をつぶり音の始まりを待った。
 はじめは胃の底を浸すような低音だった。その中に忍び込んでじわじわと近付いてきたチェロは突然、ノコギリのような激しい弓使いで骨身を削ろうと切りかかって来た。散弾銃のようにファゴットの十六分音符が飛んで来て私の肉をどことも構わず叩く。椅子に縛られている私は逃げることなく全てを身に受けた。金管勢の警笛のようなフォルティッシモが耳を裂こうと襲いかかって来て私の身体を椅子から飛びあがらせ、また椅子に打ちつける。ぼろぼろになった身体の穴と言う穴から血と共に古い細胞が流れ出し、私はしぼんだ皮膚の袋として打ち捨てられる。しかし同時に身体の奥から新しい細胞が芽生えるぴきぴきという音が聞こえ、あっという間に身体中を満たした。どんどん血を吸いこんで膨らみ、もっと音楽を聞かせろとばかりオーケストラへ向かって身を乗り出す。
 ついに全奏が訪れた。待ち焦がれた大音量が私の頭から降り注ぎつま先までに満ち満ちていく。痺れが爪先からのぼってきて脊髄を通り、頭の天辺まで到達する。男の子のフルートを聴いて目に色が満ちた時の何倍もの感覚が私を襲う。耳も、鼻も、空気の震えを感じ取る皮膚も、全てが新品になったようで痛いほど鋭敏だ。音楽、そう音楽だ。なぜ一瞬でも怯える必要があっただろう。音楽が無い世界に生きるだなんて暗闇を手探りで生きるようなものだ。この感覚を知らないで生きる方がよっぽど恐ろしいのに。
 全奏の合間にひらりと現れた四小節だけのクラリネットのソロが「恋人の主題」を伸びやかに吹き鳴らす、そしてそれをクライマックスの全奏が押し潰す。私は目を開けた。これ以上ないくらい鮮やかな世界が立ち現われた。目から堰を切ったように涙が溢れて、新しい網膜が初めて世界を映し出す。美しく磨かれたトランペットのピストンのひとつひとつの動きがきらきらと光を跳ね返すところまで、よく見えるのだ。
 私はいてもたってもいられなくなり鎖を引きちぎってしまった。新品の身体を試してみたくて、動きたくてたまらなかった。私は指揮者の元に駆け寄り最後の音の指揮を一緒に振り大声で歌った。生まれて初めて声を出したように、腹の底から喉をこすって口の外へと熱い息が送り出されていく感触がくすぐったく、新鮮だった。
 力強く拳を振り上げて全音符を締めくくると、指揮者の首がごとりと落ちた。ぎょっとしたが切り口から血が出ないので、すぐニセモノだと分かった。
「『断頭台への行進』、随分と質が悪いね」
 私はこの曲を知っていた。だから、質の悪いオケの男達が曲名と絡めて仕組んだ冗談だと思った。
 しかし、まるで指揮者がすげ変わったように私に集まる男達の目の全てが驚きで見開かれていたので、私はそうではないと気付いた。
「こ……殺したよ」
「女なのに」
「マルタに堕ちないどころか」
「俺達より強いぞ」
 男達がどよめく。技師が犬を呼ぶように口笛を鳴らすと、あのカリフラワーの木のふもとで見た男の人と同じ作業着を着た人が二人出て来て、指揮者の首と胴を運び出した。
「成功だ! 君は我が軍の最終兵器だ!」
 技師が走り寄ってそう叫んだが、まるで私の表裏を間違えたように私の背中に話しかけていた。
「ああ、なんて美しい棺だ……」
 まるで砂漠で恐竜の骨を掘り当てた考古学者のように、さらさらと砂を払う手つきで技師が私の棺をさすりまくる。
「そんなことより、指揮者は……」
「いいのさあんな使い捨て」
「一音も出さないのに飯食わすなんざ」
「穀潰し」
 オケの中には誰一人取り沙汰する者がいなく私は取り残された気分だった。
「成功、ということは、私もオケに入れるんですか?」
 私は技師に聞いた。演奏を目の当たりにして、どうしても一緒にやりたくなってしまったのだ。
 しかし団員達はめいめい
「お嬢ちゃんじゃねえ」
「そんな重いもの担いでちゃ」
「片手間じゃ」
ととりあってくれない。
「どうして? 私オーボエが吹けるのに」
「楽器が女だから、女を嫌うんだよ」
 技師が言った。それを聴いて私は楽器が女の人の身体で作られていることにあらためて思い当たりぞっとした。
「じ、じゃあ、歌でもいいですよ!」
 私は指揮台の上で先ほど鳴らされた『断頭台への行進』の主題をドレミで歌ってみた。先ほどの爽快な感じだと、歌も結構いけるんじゃないかと思ったのだ。するとパタパタパタ、とドミノ倒しのようにヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの奏者が前から順に首をもたげていった。
「……え」
 弦楽器奏者の半分ほどが、まるで身分の高い人の前で礼をするように頭を下げたままいつまでも上げなくなってしまった。技師がその中の一人の首に触れると、
「折れてる」
「え?!」
 残った団員はまるでスタンディングオベーションのように立ち上がり「ブラボー!」と叫び指笛を鳴らした。
「いやいや、素晴らしいねえ!」
「俺達なんかイチコロじゃないか!」
「これで我が軍も安泰だね!」
 名演奏の後のようにいつまでも私を讃える声が鳴り止まない。先ほどの作業着の二人がまた出て来てやれやれ骨が折れるねえという様子で死んだ弦楽器奏者を引きずり出していく。今度はそのあとについて犬が出て来て、頭をもたげたまま動かない男の首を噛んで死んでいることを確認するとキャンと吠えて作業着の男達に合図する。二人と一匹の共同作業でぐんぐん処理は進み、持ち主を失ってごとりと転がされたチェロが死んだ虫のように取り残された。
「あの」
 私が狼狽すると
「いい、いい。弦楽器奏者なんざ」
「替わりは二軍にいくらでも」
「音楽で死ねたなら本望よ」
「しかもこんな可愛い娘にとなりゃあ」
「万万歳」
 まさかとは思うが、やはり、私が殺してしまったのだろうか。
「なんで」
 指揮者は私が最後の一節を歌っただけで死んでしまった。今も主題を少し口ずさんだだけなのに。
「うわあああ」
 恐ろしさで身体が引きちぎられるようだった。技師が後ろから私を押さえ込み、ぷっつりと私の視界が暗くなる。


目を開けるとはじめに通された応接間のソファに私は横たわっていた。技師と女性が私を見つめていた。
「荒っぽい真似をしてごめんなさいね」
 女性が言うが心当たりが無くてぽかんとしていると、技師があなたのこめかみをハンマーで突いて失神させたのよ、と言われた。確かに触ってみるとこめかみが痣になっているようだったが特に痛むわけではなく、技師はしれっとしていた。技師は私より私の身体の仕組みを良く知っているようで、機械のように思っているのだろうと思った。
「あの……」
「大丈夫、あなたは悪くない。団員は皆音楽で死ぬのが本意なの。快楽の海で大往生よ」
「というより現世に飽き飽きているのにいつまでも死ねないから軍に入ったような奴らさ。娑婆は音楽が禁止だし。男も女もみんなそんなもんなのさ」
 私の脳裏には何人も首を折って死んだ光景が生々しく思い出されたが、確かに若い人はほとんどいなく、私の父くらいから老人と言っていいくらいの人が多数であった。でもだからと言って殺した罪が減るわけではないはずだ。と思って口に出そうとすると
「老人ホームじゃないものね」
「いいじゃん。口減らし口減らし」
と二人がひょうひょうと言うのでもうこれ以上責めて考えるのはやめた。
「でも、じゃあ、私のおじ……ジョージという十歳くらいの男の子に召集令状が来たのはなんでですか?」
「ああ、それが、今からあなたに伝える任務なの。今回の戦争の相手はネムル大佐という男で、私達は前回負け越したのでこちらから一人『寵姫』を出さないといけないの」
「ていうか、毎回毎回負け越してるんだけどね」
 技師がずれたメガネを上げながら自嘲的に笑う。
「チョーキって何ですか?」
「若くて可愛い、まだ棺を持っている女の子。そしてその棺を捧げてくれる女の子。それを貢ぎ物として相手に送り出すのよ」
「ということは、向こうで楽器になるんですか?」
「さあ、一体何になるのか……ネムルは楽器をいくつも使わないのよ。寵姫が返って来たことがないから、分からないのよ」
「夜のお相手かもしれないさ」
「でも私はネムルはロボットだと聞いたわ。人体に興味があって解剖しているって」
「俺はトランス・ヴェスタイトの生身の男と聞いているが。女の肉を食って女の曲線美を手に入れようとしているらしい」
「……」
 何も分からない上に噂は全ておぞましいものじゃないか。そんなところにたった一人で行くなんてぞっとする。
「何にせよ、こちらはみすみす娘をやるのは癪でしょ。だからあの少年に女の子の格好をさせて、偽の棺を担がせて送り込む気でいたの。でもあなたが来てくれたなら問題無い、というかもっと良いくらい。だって音楽に耐性のある女の子だからね」
 女性は、まるでオーロラのようにキラキラ光る素敵なドレスを持ってきた。私が今着ている真っ白で擦り切れた制服に比べてなんて綺麗なんだろう。私が立ち上がってドレスを手に取ろうとすると技師が私を押さえ、うつぶせにさせた。背中がすーっとする感触で棺を開けられたことが分かった。技師は汚いベストの中から宝石商がつける真っ白な手袋を出してはめ、丁寧に棺から私の分身を取り出した。
「ちょっと、私がやるわよ」
と女性が言ったが技師はかまわず分身の制服を剥いでいく。
「いいです、一度捨てたものだし」
 私が言うと女性は黙った。技師は新しいおもちゃを手に入れた子供のごとく分身に夢中だ。ふーん、こーなってるんだー、とか呟きながら、口の中に鉄の棒を突っ込んだり、瞼を開けたり閉じたりしている。分身はドレスを着せられると、つや布巾で身体中綺麗に磨き立てられた。そこまでは大人しく人形のフリをしていた分身がだしぬけに私の方へ首を向け
『そのうち、捨てることさえ出来なくなるよ』
と言った。それは他の人には聞こえないようだった。そしてまたすぐ人形のフリに戻った。
 分身は美しく変身し棺に収められたが、私は汚いままだった。これじゃあまるで運搬人のようだった。
「これでいいんですか?」
「これでいいのよ」
「……」
 私はそのまま馬車に乗せられ、出発した。
 車中で女性は
「何があるか分からないけれど、とりあえず情報を集めて帰って来て。無理にネムルを殺そうとしなくていい。普通の女の子ではないとバレると戦法違反扱いされるし、それよりまず気に入られて、愛されて、秘密に近付くことを考えて」
と言った。愛される、というのは私が不得意とするところだった。でもきっと背中の可愛い分身がどうにかしてくれるのだろう。



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