音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 2/19

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小学四年生の時、夏休みの宿題で「おじいさん、おばあさんに戦争についての話を聞きましょう」というものが出た。私はその年の夏、なぜかずっとタブーになっていた、「おじいさんに戦争体験を聞く」ということをした。つまり、おじいさんは戦争が好きだと思っていたから、おじいさんが悪い人だと知ってしまうのが怖かったんだと思う。けれど、宿題という大義名分があれば、意外とすんなりと話に入れた。
 宿題のプリントを見せながらおずおずと、
「おじいちゃんは、戦争好きだったの?」
と聞くと、おじいさんは
「ハッハッハ、嫌いさ、あんなもんざ大嫌いさ。痛いもんは嫌なもんさ」
と、歯の裏が見えるくらい豪快に笑った。おじいさんはよく入れ歯を出し抜けに外してはカタカタ言わせながら見せびらかして私をビビらせていたので、またそうされるのかと思ってさっと身構えた。しかしおじいさんは予想外に、突如着ていたTシャツの裾をべロリとめくった。普段見慣れぬ、赤いべろべろの皮膚がたゆたっている老人の裸に面喰らっていると
「ほれ」
と言っておじいさんが右のわき腹を示した。よく見ると、子供の指くらいの長さの縫い跡がいくつも走っている。
「なにこれ! やくざみたい!」
 当時の私は、漫画に出てくるやくざの顔の傷は手術跡だと分かっていなく、刺青のような、自分で入れる格好良いマークか何かかと思っていた。当時やっていた海賊のアニメに出てくる二枚目の悪役が、同じ傷を顔に持っていたからかもしれない。
「かっこいいね!」
 そう口から飛び出た。タブーを聞くという緊張から解放されて、私ははしゃいでいたのだと思う。おじいさんの得意げな傷自慢の表情が、まるで武勇伝を語る海賊の悪役みたいだったからかもしれない。
 しかし、おじいさんは一瞬、ほんの一瞬、不意を突かれた真っ白な表情をした。何かまずいことを言っただろうか、と思う隙も無く、おじいさんは元の海賊の顔に戻り
「かっこいいだろ。じいさん、この前ガン検診受けただろ。その時お医者に『レントゲンに何か映ってますけど、心当たりありますか』って聞かれてな。なんと、その時の破片が、残ってたのよ」
「え!」
「長い時間かけて、背中の方にまわっとったが」
「痛くないの?!」
「痛いも何も、ずっと腹の中にいたなんて気付かないくらいだったからなあ」
「何年?」
「もう六十、いや七十年近く前か……今もここに入っておる」
 おじいさんはそう言って、バイクに乗った男が後ろに乗れと指示する時のように、ぶっきらぼうに自分の背を示した。
「痛くなかった?」
「痛かったぞー。間違い無く人生でダントツ一位の痛みよ」
「逃げ遅れたの?」
「いや、自分でやった」
「自分でやった?!」
「……って言ったら、どうする?」
「え?」
 ニヤリと笑ったおじいさんの口角がどんどん上がっていって、このまま口がめくれていって、顔が全部口に食われそうだった。泣く寸前みたいに頬の筋肉がぴくぴくしていた。おじいさんのそんな表情を見たことがなかった。自分でやった、なんて意味が分からない。
「敵にやられたんじゃないの? おばあちゃんそう言ってたよ」
「いや、自分でやった」
 おじいさんは腹をしまうと一瞬振り返って扉が閉まっていることを確認した。私は総毛立った。つまりおばあちゃんにも言っていない話をするということだ。
「ヤクザみたいに、マークつけたかったの?」
「マーク? マークっつうか、そうさな、けじめだろうな……」
 私はおじいさんの表情の恐ろしさと、秘密を聞かせてもらえるという高揚感で、胃液がせり出しそうなほど緊張していた。

おじいさんは話したのはこんなことだった。
 おじいさんが兵士として赴いたのはやはり東南アジアだった。作戦が失敗し、窮地に陥っていた我が国の兵を、あくまで上手く撤退させるための要員として、おじいさん達は派遣されたらしかった。現地の兵と合流し、物資を与え、ひたすら「逃げる」ための作戦。
「俺はその時よく知らなかったけど、戦後、最も悲惨な作戦のひとつとして、よく名前が出てくる作戦だった」
 合流した兵士の中におじいさんと同郷の人がいたらしく、郷里の話で意気投合した。戦場で共に過ごす時間の濃さと、外国にいる時に日本の懐かしい話ができたという喜びで、二人は会って数日で幼馴染みのように仲良くなった。
 戦争というと、私は荒野で銃を手に激しく撃ち合うようなイメージがあったが、おじいさんの戦争はジャングルの中をひたすら行軍するというものだった。ジープや戦車を使うイギリス軍はジャングルの中には入ってこられないため、遭遇するのは稀だったという。
「鬼ごっこっつうより、隠れんぼだな。戦車もジープも無い、弾丸も少ない、物資の面で圧倒的に負けてるんだから、出会ったらズドン」
 部隊が経験した数少ない戦闘のうちのひとつで、親友は死んだ。それは、ジャングルを抜けて陣地に辿りつき、ひと段落した時だった。
「英兵が来た、と見張りが知らせた時、俺はすぐに壕に入った。壕から五、六十メートル先にある爆弾の点火用針金を引いて戦車を蹴散らす役になっていたからな。戦車が地をならす音が、壕に入るとまるで地震みたいに響いた。戦車はすぐに近づいて、猛烈な量の弾を撃って来た。壕に入っていたから当たらなかったが、土煙と硝煙とで呼吸困難になって、何も見えなくて、苦しくて、天地がどっちかも分からなくなるくらいだった。でも、爆弾に点火するタイミングを間違えちゃいけない。それだけを一心に考えて、なんとか気をしっかり持っていた。一度しかない。それを逃したら俺が戦車に踏み潰される。それを待つくらいなら、壕に保管してあるありったけの弾薬を持って戦車に体当たりするしかないと覚悟してた。さすがに、故郷に残した母ちゃんのことを考えたね。あの時が一番、死に近かった。それに人生で一番冴えてた。
 これだ、という瞬間に意を決して頭だけ壕から出すと、まさにドンピシャ、戦車は爆弾の真上にいた。でも、なぜか、そこに、今まさに壕に逃げ込もうとしている、親友が、いた。『今を逃したら玉砕』それしか頭に無かった」
「眩しいのと轟音と煙とで、何が起こったかよく分からなかった。自分が死んじまったかと思ったよ……、でも、妙に静かになったんで壕から這い出てみると、戦車もぶっ飛んで、それから……親友も。そう俺は、最高に、冴えてたさ。何のためらいも無く、それが出来たんだから。でもそのあとが冴えてなかったな。もう、戦場にいるのが嫌になった。ぬかるんだジャングルを子鼠のように逃げ回るのも、ストレスも疲労も限界だった。周りを見ると、相当死んでた。生き残って、ほっとして、だが、信じられなくて、舞い上がってたと思う。それでふと、賭けをしてみようと思いついた」
 ぐちゃぐちゃになった親友は手榴弾を握り締めていた。おそらく戦車に投げようとしてたのだろう。それを見て、以前親友と「投げ込まれた手榴弾に鉄兜をかぶせれば助かる」という噂を聞き、一回試してみようと話していたのを思い出した。おじいさんは、今それを試さないといけないような気になった。こちらに差し出すように手榴弾を握り締めている親友が、やってみろよ、と言っている気がした。
「なぜ、こいつが死んで俺が生きているのか分からなかった。俺はもう、無性に試してみたくて仕方無くなった。生き死にの間に一本渡っている、うっすーい綱、それを渡ってみる、ひやひやーっとした気持ちが、快感になっちまったんだな」
 親友が自分を許してくれるなら、生き残るだろうと思った。
「え、手榴弾って、凄いんじゃないの?!」
 私は映画でよく見るような大爆発をイメージしていた。
「何、映画みたいな爆発は大袈裟にしてるだけさ。手榴弾なんて大した威力があるもんじゃなくて、殺すより負傷兵を出すことが目的の武器なんだよ。だから、親友の手から手榴弾を貰って、ピンを抜いて鉄兜をかぶせて、その上に腹ばいになった」
「え!?」
「それで、これさ。いくつかの破片が腹にちょっと刺さっただけ。でも、腹っていうのはものすごおく痛いんだな。ヒーヒー言ってたらすぐさま野戦病院送り。あんまり痛い痛いって騒ぐんで、すぐ帰国になった。まぬけなもんだろ。親友を殺した罪悪感で自傷したんじゃない、要は、じいさんは、戦線離脱したかっただけなんだよ」
 おじいさんは日頃からよく嘘を吐く人だった。だから、最後の一言も、嘘なんじゃないかと思った。照れ隠しなのか、めまぐるしく話すから、どれが本当のおじいさんの気持ちなのか分からなかった。今の私にも分からない、でも、いくら戦争中とは言えそんな自傷行為をするなんて、やっぱり自分を壊してしまいたくなるほどの自責の念があったんだと思う。でないとそんなバクチ打ちな方法なんてとらないだろう。
「それで、おめおめと帰って来たのに、死んだ親友のお母さんが郷里の親戚の知り合いでな。同じ隊にいたこともバレてしまった。その人が活動家で、南の国に散った遺骨を集める会だの、戦争の記録を聞き取って自費出版するだの、賠償が何だのやっておって、息子の供養だと思って協力してくれ、ときた。勿論『あんたの息子を殺したのは私です』なんて言えないし、供養だなんて言われたら……断れない。ずるずる引き受けておったら、いつの間にかいろんな会の会長になってしまった……ハハ、皮肉なもんだろ!」
 おじいさんは景気良く腹をポン! と叩いた。
 おじいさんが経験した情緒の波を受け止めるには、その時の私の幼い心は小さ過ぎて、溢れ出した激流に呑まれて茫然とするしかなかった。心の中にテレビの砂嵐がザーッと流れているようで、処理出来ない感情が灰色の濁流となって私を支配していた。その中に時折、鉄兜に腹ばいになるおじいさんやぐちゃぐちゃの親友の片腕、「玉砕」「会ったらズドン」という生々しい言葉が浮かんできて、怯えるしかなかった。
 おじいさんは、催眠術ごっこでもするように、おどけた様子で私の目を覗き込んで、言った。
「お前のじいさんは、偉くもなーんもない。ただの卑怯な敗走兵さ、残念でしたー」
 そして催眠術を解く時のように私の前で、パチン! と手を鳴らした。
 おじいさんのふざけた様子に接したら、胸の中の濁流が少し落ち着いて、そのかわり上澄みのように浮き上がったのは怒りだった。私の心をこんなに荒らしたあげくに、おちゃらけて。こんなに恐ろしい話を聞かされて、今日は眠れないに決まってる。子供に話すことじゃないと、子供ながらに思った。
「なんで、おばあちゃんには言わないの、そんなのおばあちゃんに言いなよっ」
「信じて連れ添った伴侶が人殺しの敗走兵じゃ、いたたまれないだろ。結婚する前に言えなかったから、もう言う時も逃したし、今更」
「じゃあなんで私に言うの」
「お前は俺を選んだわけじゃないだろ。生まれた時から、お前のじいさんは俺って決まってる」
 変な理屈だと思った。地団太踏んで抗議した。もう何でも良かった。
「おばあちゃんに言うぞ!」
「よせ、ぽっくり逝っちまう。秘密は守れ。秘密を持つとわくわくするし、強くなれるぞ。鉛と仲良く暮らせるくらいにな」
 おじいさんは湿布を慣らすような手つきで腰をぺしーん! と叩いた。その老人の日常的な動作と、弾力無い肌の出すしょぼい音が、私を逆上させた。おじいさんの胸板をぽかぽか殴った。
「別に強くなんかなりたくないもん!」
「分かった、分かった、悪かった。でもなあ」
 おじいさんは胸板にまとわりつく私をひっぺがすと、膝に座らせた。小四にもなってそうされるのは久々で、少し気恥ずかしかった。近付くとおじいさんは、当時私が「病院の匂い」と呼んでいた、湿布の匂いがした。
「おじいさん嬉しかったんだぞ。腹の傷のことなんざ皆『お気の毒ですね』とか『大変でしたね』『おつらいですね』とか言ってくれるだけなんだぞ。そう言われると、じいさん悲しくてな。もう大人しく、可愛そうなおじいさんのフリをするしかなくてな。同情してもらったのに悪いもんな」
 私はさっき自分の口から飛び出た『かっこいい』という言葉を思い出した。いくらなんでも考え無しなことを言った気がして、赤面した。
「でもな、お前は、目をキラキラさせて、『やくざみたーい』って……」
「わー」
 私はおじいさんの口に手をあてがって止めようとした。数分前の自分が幼稚過ぎておじいさんの記憶を掻き消したかった。
「でも、う、う、嬉しかったんだぞ」
 私に口に指を突っ込まれながら、おじいさんはもう一度そう言った。私はのどちんこを目指したが、老体にして強健なおじいさんはUFOキャッチャーのように私を軽々つまみ上げて、床に降ろしてしまった。


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