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表面化した不都合から未来が生まれる

あまりにも長く、マスコミから放置され続けてきた「旧統一教会」の問題が、安倍元総理銃撃事件で突然に取りざたされている。この問題はすでに私が十代の頃からずっとあった。大学の東洋文化研究会はほとんど統一教会だ、と教えられたし、知りあいが勉強会に勧誘されたまま洗脳されていったこともある。この宗教団体がこれほど活発に、そして長期間、日本での活動を許されたこと事態が不自然であるし、マスコミはオウム真理教をバッシングしたときも、統一教会の洗脳に対してはスルーしていたと思う。であるから、私は統一教会は政治権力と深く結びつき、守られているんだろうと推測していたし、そうでなければ他国で摘発されたこの宗教団体が、日本においてだけこれほど厚顔無恥に活動を続けられるわけはないと感じていた。
たとえば、旧統一教会だけでなく、産業廃棄物業者の問題も同じで、何度も何度も違法投棄が繰り返されており、熱海では大きな土砂災害が起きたにもかかわらず、国も県も、この産廃業者の規制に対してはほとんどやる気がない。抜本的な解決を遅らせているだけにしか見えない。どうして不法投棄の問題を取り締まれないのか。それもまた、業者が政治と結びついているからとしか思えない。そしてそれに対してマスコミもまた切り込むことができない。それは、戦後からずっと変わっていないと思う。長く生きてきたが、常にこれらの問題は先送りというか……問題が起きてもその根本的原因へと究明することは、さまざまな立場の権力の側にいる小役人にとって暗黙の了解として起きざられていたと思う。

日本において、さっぱり問題究明も解決も進まない……という問題はいくつかあるが、私にとっては上記の二つはとりわけ気になる問題だった。こういうことを取材する記者、また表現しようとする表現者への圧力もあるし、時として命を狙われたりもする。私は命が惜しいので、これらの問題に対して自分が取材しようとは思わない。だが、市民として、住民として「まったく解せない」と思い、それが何十年も続いているこの国の腐りきった政治システムを変えられないのは、国民が政治を考えないからだと言われるが、考えないように小学校から教育されているので、いかんともしがたいように感じる。小学校の教育課程が最悪だ。だから子どもは不登校になる。子どもの不登校は文科庁にとっても国民にとっても共通の課題であるのに、課題に向き合おうとしていない。課題に向き合い協力しあって解決するという教育をしないからだ。

思えば、私もそうだった。社会システムや社会保障について、第一次、第二次世界大戦や、その後の日本の政治システム、この国で生きて行くためにいくら税金がかかるかとか、労働者の権利について、また国会の運営方法や選挙制度について、じっくり議論したり考えたりする授業は皆無で、そういうことは大学へ行ってから……みたいな感じだった。しかし、大学生がそれを学んでいるとも思えない。これらの知識や社会人として民主的なシステムをつくっていくための必須条件だから、民主主義国家に生きているなら、母国語と同じくらい必要な知識なのにもかかわらず、教えない。そして、社会保障や年金について何も知らずに社会に放り出され、税金は給料から天引きされるので、税金をいくら払っているかも意識できず、国の無駄遣いにも鈍感になる。

日本が良い国か悪い国かという、二元論的な議論はしたくない。問題はいまある「課題」を、政治家がどう向き合おうとしているかであり、課題を先送りしたり隠ぺいしたりする者は、とうてい信用できない輩なのだから選ぶべきではない。だが、選挙民が「課題」についてどれくらい理解しているかといえば、さまざまな問題をゴシップとしてしか捉えず、全体の生活向上のための「課題」として取り組む姿勢が少ない。

自分事として考える、と、言うのは簡単だけれど、実際に起きている政治とカルト宗教の癒着、しかも40年以上続いているこの癒着によって、被害を被り人生を狂わされた多数の国民に対して、「信仰の自由」だからと自己責任のように思わされているこの風潮を、自分にとっての課題としてどう受け止めるか……。書いて表現することができるので、いま自らの課題としてこれを書いている。正直に言えばこの課題を私もずっと自分と距離を置いてしまい、取り組もうとしていなかった。

政治家も同じ、警察も同じだと思う。組織的詐欺の事実を真摯に受け止め、責任をもって法改正し規制をつくるという、他国が行っているような課題をもって、そこに向っていくことで、他の機関とも協調できるはず。

この国は、課題を共有する教育をしいない。問題が起きると糾弾し、暴露して終わりにしてしまう。たいせつなのはそれからで、問題とは表面化した不都合であり、それによって真実が現れたなら、国民と政治家はそこに共通の課題を見いだすべきだ。それは「私たちの生活が質的により向上し、人権が守られる社会にしていく」ことであり、「子どもたちを犠牲にしない」であろう、課題はいくらでも見つけられる。その課題に向って、それぞれが可能な取り組みをしてくような、そういうモチベーションがあれば、「他人事」という感覚から次第に抜けられるんじゃないか。つながった時に、個々の問題は、みんなの課題になる。

なにか問題が起きたときに、それに対して個人が謝罪をするとか「もうしません」的な会見はナンセンスだ。政治に携わっているならなおさらのこと「なぜこのような事態が起きてしまったのか?」について自分の頭で考え、表面化した問題は課題に気づかせてくれた大切な機会と考え、起きてしまった悲劇からどのような課題をもち、達成するかを公表しあい、それぞれの課題を通して社会に貢献していくような市民のあり方を、学校教育の中で取り入れていくことがとても大事だろうと思う。そのために憲法の知識は必須だ。というのは国の秩序である法は、権力の抑制をするために作られた憲法を土台にしているからだ。

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