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かわいげのない幼児期①

輪廻転生を信じますか?
いい大人になった今、改めて思い出すと、我ながらなんとかわいげのない幼児だったことか。
純真さもなければ無垢でもない。
幼児とは思えない計算高さと我の強さ。
人生を何周も終えている、老練な魂が宿ったのでしょうか。
周りに迷惑ばかりかける問題児でした。

昭和50年に生まれた私に、今でも強烈に残っている幼児期の記憶を紹介します。



3歳の大冒険

細かい記憶は残っていませんが、3つ下の弟はまだいなかったように思うので、おそらく3歳くらいの出来事だったはずです。

当時の私は、買ってもらった三輪車が嬉しくて、毎日乗り回していました。
そんなある日、今でも覚えていますが、なぜか突然

「いっちょやってやろう!」

という思いに駆られて、三輪車でどこまで行けるかチャレンジを始めたのです。

三輪車を漕ぎながら、移りゆく周りの景色を眺める私の心は、ワクワクでいっぱいでした。
いつになく軽いペダルを踏み続け、グングン三輪車を走らせていきました。
不安などかけらもなく、高揚感に包まれながら、かなりの時間、かなりの距離まで走り続けました。

我に返ったのは、夕方のチャイムが聞こえた時です。
外で遊んでいても、そのチャイムが鳴ったら家に帰る約束でした。
気がつくと空は夕焼けに赤く染まっていました。

辺りを見回すと、そこはまるで見覚えのない場所でした。
知らない建物
知らない木
知らない道
それまでの高揚感は消え失せ、急激に心細さと不安が押し寄せてきます。

来た道を振り返ってみても、どこまでも知らない道が広がっているばかり。
3歳児の見知った行動範囲をはるかに超えてしまったようです。

完全なる迷子です。

信号のある大きな道路の交差点付近で動けなくなり、ただただ必死に涙をこらえていました。
帰宅時間のせいか、自動車の交通量も増える一方で、来た道を帰ることもできません。
助けを求めようにも、通りがかる歩行者もまばらです。

・・・ここで大声で泣けば、誰か助けてくれるかもしれない。

混乱する思考の中で、そんな考えが浮かびます。
一方で、

・・・大声で泣いたのに誰も声をかけてくれなかったらどうしよう。
・・・一人で大泣きして恥ずかしい。

という気持ちも湧いてきて、つい涙をこらえてしまいます。

身動きが取れないまま、あたりは徐々に暗くなり始めます。

3歳の私はただただ唇を噛み締めながら、周りをキョロキョロ見回すことしかできませんでした。
その時、

「ゆうちゃん?どうしたのこんなところで⁉︎」

聞き覚えのある声がして振り向くと、近所のおばさんがそこに立っていました。
道向かいにあるスーパーに買い物に来ていて、交差点で立ちすくんでいる私に気づいて声をかけてくれたのでした。

緊張の糸が切れた私は大泣きしたように思います。

そこからはよく覚えていないのですが、そのおばさんが車に三輪車を積んで、私の家まで送り届けてくれました。

家では母親がいなくなった私を探して、あちこち駆け回っていたようで、めちゃくちゃ怒られた覚えがあります。

その時の私は、家に帰れたという安心感で、ただただ泣き続けていたように思います。

子どもを預かる仕事についていた今ならわかりますが、とんでもなく危険な冒険を、3歳にして行なっていました。


食への固執

前世では飢えていることが多かったのでしょうか?
幼児期から私は「食」、特に「甘いもの」への執着が強かったことを覚えています。

生まれたばかりの弟をかわいがっていましたが、ある時大好きなチョコレートスナックが原因で、大泣きするケンカをしました。

私の親は戦後生まれのせいか、質素倹約が染み付いていて、子どもが喜ぶような流行りのお菓子はなかなか買ってくれませんでした。

その日は珍しく、私が大好きなチョコレートスナックをおやつにもらえました。
うれしくてうれしくて、私は箱ごと抱えて一人で食べていました。

すると弟が寄ってきて、「自分にもくれと」ズボンの裾を引っ張ってきました。
まだ歯も生えていなくて食べられるはずもないのに、しつこく引っ張ってくる弟が無性に腹立たしくて、

「いい加減にしろっ!」

と叫びながら弟を突き飛ばしました。

そのはずみで、箱からチョコレートスナックが飛び出し、床に散らばりました。

突き飛ばされた弟は大声で泣き出します。

大切な大切なとっておきのお菓子が台無しになってしまって、私も大泣きします。

チョコレートスナックが床一面に散らばる中、兄弟二人で大泣きしていました。


素直に一欠片くらい口に入れてやれば、そもそもこんな悲劇にはならなかったはずです。
でも、当時から私は甘いものへの執着が強く、抑えられませんでした。

友達の家に遊びに行った時も、そのせいで恥ずかしい思いをしました。

友達の家に行くと、どの家でもいつもお菓子を出してくれました。
うちでは出てこないようなお菓子ばかりで、私はそれが何よりも楽しみでした。
かくれんぼをしている途中でも、お菓子の出された居間に駆け込んで、お菓子をほうばってから隠れるほどでした。
友達のお婆さんに呆れた顔で見られても、気にもしない図々しさでした。

そんなことをしていたので、私の評判はあまり良くなかったと思います。
嫌われても仕方ない、恥ずかしい行動でした。

しかし、幼児期の私は衝動を抑えられなかったのです。

この執着は、小学生になっても度々自分を苦しめることになります。

お菓子を与えてくれなかった親を、少なからず恨めしく思っています。
家で十分食べられていれば、よそで恥をかくことも、嫌われることもなかったのに・・・


4歳にして保育園を自主退園

3歳くらいから保育園に通っていましたが、私は保育園が嫌いで嫌いで仕方がありませんでした。

何がそんなに嫌だったのか。
今でもはっきり覚えています。

お昼寝です。

私は寝ない子で、夜も寝つきが悪く、夜泣きもして、親を困らせていたようです。
夜でさえ寝ないのに、昼日中から寝られるわけがありません。
強制的に布団に入れられて、寝させられるお昼寝の時間が、何よりも苦痛で仕方がありませんでした。

眠くもないのに、1時間以上ずっと布団でおとなしくしていなければならないなんて、時間の無駄としか思えません。

あまりにも毎日嫌だったので、3歳にして保育士さんに直談判しました。

「お昼寝が嫌でたまらない」
「全然眠くない」
「静かに一人で絵本読んでいるから、お昼寝させないでほしい」
「お外に出たり、騒いで他の子起こしたりしないから」
「迷惑かけないようにするから、起きていることを許してほしい」

かわいくないでしょ?
どうですかこの交渉力。
3歳ですよ。

ですが、保育士さんは誰も受け入れてくれませんでした。
今ならわかります。
保育士さんたちにとって、このお昼寝の時間がどれだけ貴重なのか。
子どもたちがおとなしく寝ている間に、連絡帳を書いたり、お仕事を済ませていたはずです。

それを察して、可能な限り迷惑がかからない提案をしたつもりだったのですが、受け入れてもらえませんでした。

結局のところ「寝ろ」と。

理不尽だ!
不条理だ!
納得いかない!

我慢ならなかった私は、今度は母親に直談判し、年中には上がらず、1年で保育園を自主退園することにしました。

「三つ児の魂百まで」という言葉があるように、この「理不尽や不条理を押し付けられることに我慢ならない」という性質は、50歳近くなった今でも変わっていません。
教師を辞めたのも、保育園を辞めたのと同じような理由でした。
やはり、人間の本質は変わらないものなのでしょうか?

年中、4歳の1年間は家で過ごしたのですが、当然おとなしくしているわけがなく、また問題を起こすのでした。


弟をダシに見つけた理想の隠れ家


保育園に行かなくなって、毎日家で過ごしていた私は、母親から弟の面倒を見るよう仰せつかりました。

学年は三つ違いでしたが、私が2月生まれで、弟は2年後の10月生まれだったので、私が4歳の4月には、弟は1歳5ヶ月でした。

弟もすでに歩けるようにはなっていたので、たまに近所の公園に連れて行って遊んでいました。
そこで、弟より少し小さい赤ちゃんを連れたお母さんに出会いました。

初めはお子さんと弟の歳が近かったので声をかけてもらったように思います。
そこで、弟と一緒にその子も遊ぶようになりました。

そのうち、何かのきっかけでその子の家に招かれました。
その子の家では、美味しいお菓子を出してくれた上に、幼児向けのテレビも好きに見せてもらえました。
うちでは普段テレビを見せてもらえなかったので、その子の家はまるで天国のようでした。

それ以来、私は弟を連れて毎日のようにその子の家を訪ねました。
招待されたわけではありません。
お菓子とテレビ目当てに、弟をダシにして遊びに行っていたのです。
その子の相手は弟に任せて、私はお菓子を食べながらテレビを夢中で見ていました。
4歳にして見つけた桃源郷が、そこにありました。

時々母親から「毎日どこへ行っているの?」と聞かれましたが、公園とかなんとか、適当に誤魔化して、その子の家に行っているとは言いませんでした。
よその家に入り浸っているとわかれば、絶対に行かせてもらえなくなると思ったからです。
そういうずるがしこい勘だけは働いたのです。

しかし、幸せな日々は長くは続きませんでした。
どこから聞きつけたのか、母親にその子の家に入り浸っていることがバレて、こっぴどく叱られ、二度と行かないように言われてしまいました。

思えば、後半の方は家を訪ねた際に、お母さんがちょっと困った感じで、
「今日は子供の具合が悪いからまた今度ね」
とか、何かと理由をつけて断られることがあった気がします。

厚かましく、図々しい私は気にもせず、1日か2日おいてまた訪ねていましたが、結構迷惑をかけていたんだと思います。

そりゃあそうですよね。
毎日のようによその子がお菓子食べてテレビ見に来ていたんだから。
4歳にして「出禁!」をくらう子って、そうそういないと思うんですよね。

とんでもない4歳児でした。
まったくかわいげのかけらもありません。


自動車を動かして大泣きした件


その頃私たち一家は、教員住宅に住んでいました。
父親が小学校の教員で、母親は私たちが小さかったので家で何かの内職をしていたように思います。
住んでいた教員住宅は平屋で、道路から一段上がった所に建っていたので、入り口は坂になっていました。

父親の車はその坂を上がった所にいつも停めてありました。
出かける時にお客さんが来たような気がします。
私は助手席に座って、父親が来るのを待っていました。
父親は玄関先でお客さんと話していました。

退屈だった私は、つい魔が差してやらかしてしまいます。

助手席の横にはサイドブレーキがあります。
父親が運転するのを横で何度も見ていて、「これを下げる」という動作が頭にありました。
もちろん、幼児にサイドブレーキの役割などわかりません。
当時はチャイルドシートなんてものは存在しなかったので、幼児でも助手席に普通に座って、自由に動けたのがいけませんでした。
好奇心に駆られた私は、サイドブレーキをああだこうだといじり出しました。

・・・あれ?下がらないな

と思いながら色々試すうちに、ボタンを押しながら下げることに成功しました。

その時

坂の上に止められていた車は、サイドブレーキが外れたことで、ゆっくりと坂を下り出してしまったのです。

後ろ向きに動き出す車。

乗っていた幼児の私はパニックです!

突然動き出した車に言いようもない恐怖心を感じました。

車が動き出したことに気づいた父親が、慌てて車に駆け寄り、助手席のドアを開けると身を乗り入れてサイドブレーキを引いて、車を止めてくれました。

もう少しで車は坂を下り切り、道路に飛び出す所でした。

私はまたもワンワン大泣きしたことを覚えています。

父親は「ブレーキをいじるな」とか怒っていたように思いますが、その時の私には、絶体絶命のピンチを救ってくれたヒーローのような、頼もしい存在に思えました。


後々書きますが、私は父親にあまりいい印象は持っていません。
これは数少ない父親の良いエピソードです。
似たようなもので、車の助手席に乗っている時、何かの拍子で急ブレーキをかける時、父親は必ず左手を伸ばし、助手席の子どもがつんのめって頭を打たないように押さえてくれました。
当時はまだエアバッグなんてものはなかったので、急停車した時に子どもが怪我することがあったようです。

普段の接し方はともかく、こうした「いざという時にちゃんと守ってもらえる」という安心感は、子ども心に大きな意味を持っていたと思いますし、これが「父親の役割」なんだと大人になって感じました。



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