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『女子大に散る』 第9話・蝶よ花よ
まだ遠慮と物怖じの抜けない四月末の一年生のうち、最初に話しかけてきたのはAさんIさんEさんだった。授業後ヒソヒソキャッキャしては、
「先生──」
春風に吹かれたようにちょっとの距離を駆けてきた。「アア女子大」と悶絶しかけつつ、憂鬱ぎみの顔面つくろい出席簿をつけるふりをしていた。
「はいはいはい」
「あのっ、わたしたち特待生になりたいんです」
「だから『秀』ください」
「なんだそれ!」
本末転倒の要求に思わず笑ってしまった。特待生は年間の成績優秀者から選出される若干名で、学費が全額免除される。「秀」は五段階のうち最高評価である。
「全部の授業で交渉してるんですか」
「や、先生だけです」
「おれならいけると思いました?」
「──ちょっとだけ」
「Aが『先生ならいけそう』って言ったんです」
「ねえ!」
「ふうん……」
「言ってないです言ってないです」
上級クラスの名簿順で最初の三人だからか、付属高校からの進学でもないのに初回から仲良しだった。二人用の机に予備の椅子を持ってきてぎゅうぎゅう押し並んではクスクスと、三者三様の見かけでもどこかしら雰囲気が似通っていて、なんだか姉妹のようだった。
「授業たのしいです」
「うそくせ~」
「アハハほんとです!」
「おだてても『秀』は出ないですよ」
「や、わたしずっと英語の授業きらいだったんですけど、初めて楽しいって思えてます。わかりやすいし、まあちょっと字汚いけど、アハハ、ひらがなの『そ』もなんかヘンだし──」
「Iさんは『可』ですね了解」
「あッうそ!」
Iさんは三女っぽかった。生まれつきだろう白肌に整った目鼻立ちをして、バレリーナみたいに黒髪を引っ詰めて、屈託なく笑っていた。
「でもやさしい先生でよかったです、ほんと」
「やさしいですかねえ」
「だってエアコン寒くないか聞いてくれたり、生理のこと気にかけてくれたりする先生なんて、他にいませんし」
「他がおかしいだけですよ」
「あっあと、えっと……」
「弾切れ早ッ」
「ちがっ思い出してるんです! えー……」
「……Eさんも『可』でいいみたい」
「まってえ!」
Eさんは次女だろう。三人の中では一等フェミニンな出で立ちだがはっきり物を言うタイプで、負けん気の強そうなまなざしが印象的だった。
「先生ってタクシーのCMの人に似てますね」
(だれだれ?)
(わかんない、たぶんシンゴジラに出てた人)
(あっなんだっけ名前)
「Aさんは『秀』確定」
「やった!」
「え~!」
「ずる~い!」
Aさんは長女らしかった。どんなときでもおだやかに微笑していて、二人を一歩引いたところで見守っているような物腰で、静かに咲いていた。
「授業ちゃんと受けてたら大丈夫ですよ、試験も授業内容から出ますし」
「はあい」
「むりそ~」
「がんばります」
それから三人おしゃべり手遊びは最小限になり、まじめに取り組んでいた。期末の試験ものきなみ高得点で、前期は望みどおりの成績をあげた。
看護学部の一年生は夏休みに老人ホーム実習がある。まだ心身とも疲労の癒えていないだろう後期初回は、その年も例年どおり予告どおり「夏休みの思い出」という英作文を授業内で課すだけにした。
「みんな実習のこと書いてますね」
「しぬほどつらかったです」
「同じく……」
前期と同じ席に座っていたIさんEさんは、全員が提出していってもだらだらふやけていた。
「セクハラ地獄ですよ。引率の先生は笑ってるだけだし、職員もだぁれも助けてくれなくて、されるがままで」
「最悪だな……」
「もう一生いきたくないです……」
「──あれ、Aさんも実習には来てたんですか」
「エッ、まあ、来てました」
「……」
Iさんがわかりやすく詰まった。Eさんは前段に机へ伏せってしまったきり反応しない。その日Aさんは一人だけ最前列の端に座り一度だって二人に振り向くことなく、作文を出しに来ても「おねがいします」と一言つぶやいたきり、さっさと帰っていった。
(先生気をつけて、Aの話したら怒られますよ)
「まじか、今のなし」
「べつに怒んないですよ」
(ほら)
「怒ってないから!」
Iさんが口もとに手を添えると、Eさんは不機嫌そうに眉をひそめて起き上がった。Aさんは髪を傷ましいほど脱色させ、地雷系の厚化粧に安っぽいピアスを二つずつ開けてもいて、春の面影をまったく失くしていた。
「まあなんとなくわかりますけど」
「えっわかります?」
「目の前に座ってましたからね」
自分の首をとんとん指さしたらIさんが目と口をまるまる開いて、
「すご~」
「いやだれでもわかるでしょ」
いさめたEさんの声は暗黒に染まっている。Aさんの作文は、実習についてあたりさわりない感想が書かれた凡庸なものだった。
「ザ・大学一年の夏ですね」
「あはは……」
「浮かれてるだけですよ、人生初ナンパされて──」
実習を乗りきったお祝いに三人でネズミのランドへ行き、そこで大学生三人に声をかけられたのだという。露骨になれなれしくて二人は嫌悪感あらわに躱したが、Aさんは自分に話しかけてきた一人とSNSを交換していたらしい。
「ほんっと気もちわるい」
「男がきもいですね」
「そ! そ! インスタも病み系だったし!」
「だったらなんで付き合ってるんですかね」
「……まあ、でもAさんも望んでないかもしれないですよ、ああいう格好も」
「それでわざわざ前に座ります?」
「まあなあ……」
「見せつけたいだけですよ、まじむりしねよ」
「あっ課題やろ課題!」
Iさんが作文に取りかかりだした。Eさんはじっと一点を見つめたきり動かない。脳内に渦巻くあれやこれやが透けて見えて、
「それをそのまま書いたらいいですよ」
囁いたらおもむろにペンを執ってあっというまに仕上げた。"A Disgusting Girl"と題されルーズリーフびっしりどす黒い感情で埋めつくされた、すばらしいエッセイだった。
翌回、やはり廊下側の最前列に一人で座ったAさんは、前週より大きな蝶の形を同じところにべったり張りつけていた。Eさんは「最優秀」と隅に記しておいたのを手渡しがてら示したときだけふふっとした。
(エ~)
(まじィ?)
(きもお)
だれもが返却物を手に戻りしなAさんを横目に見て、あちこちコソコソ発していた。当人は机上の返却物をじっと見ていた。
「いいですか、言語表現で大事なのは『自分』ですよ。自分のことは自分にしかわからないんですから、それをしっかり書いて──」
教室じゅうに三十名強のさざ波が立っていた。あっちがケケケと嗤えばこっちがキキキと指をさす。苦笑のIさん、憮然のEさん、無味のAさん、三人だけがこちらを見ていた。
「テーマは『今の気分』です。思うことなんでも書いてください」
授業なんてやっていられず前回に続けて英作文を課したら、一転カリカリカツカツ試験中かほど筆記の音だけがしていた。
「おねがいします」
「はいおつかれさま」
「……」
「また来週」
IさんとEさんが連れ立ってきた。一方は泣きだしそうな目で笑んでいて、他方はいらだち一色の顔つきでうなずいて、二人してわざわざ後方のドアから出ていった。次々ぽつぽつ提出していって、Aさんだけが残った。突っ伏しているように脇目もふらず書き消し書いて、
「……おねがいします」
「おつかれさま」
色褪せブカブカ古着Tシャツに破れデニムと奇抜なサンダルでやってきた。ちらとファイルにしまうとき見たタイトルは"My Future"で、前回がうそのように長い長いものだった。
「──先生」
涙声の底に奥ゆかしい春の響きを聞く。
「わたし、だめだと思いますか」
うつむいて、付け焼き刃みたいな爪をいじっている。返却した添削の隅に「なにかあればいつでも相談せよ」と英語で走り書きしていた。
「思わないですよ」
「……」
「まあ、その首のは消すか塗るかしてきた方がいいかも」
「消したら、怒られるんです」
「まじか……」
「ごめんなさい」
見かけと不釣り合いなほど品よく頭が下がり、首もとのたるみにサンダルに似た極彩色の下着が覗いた。唯我独尊で贔屓ばかりの劣等教員ひしめく閉鎖的な環境だから、それが不利の種になりやしないか心配だった。
「なんも謝ることないですよ。でも教員のアタリ強くなってませんか」
「だいじょうぶです、今のところ」
ようやく上がった目は赤らんで、どこか寂しげにほころんでいた。
「あと、前期『秀』をくれて、ありがとうございました」
隈取りじみたライナーとマスカラの中心で四月のやさしげな瞳がまばたいた。いらぬチークの下で四月の透きとおった頬がささやかな笑いじわに寄っている。けばけばしいリップの底にツツジの色した四月の唇が結ばれている──
「がんばった成果ですよ。後期も無理なくやっていきましょう」
「はい」
莞爾うなずいた拍子に、ほろり左目のしずくが黒まじりの透明な線を描いた。出てゆく背は力なく、やはり寂しげだった。
翌週、Aさんは来なかった。次も、その次も来なかった。
(ぜんぶ欠席してます)
一ヶ月が経ったころ、授業後なにか言いたげなIさんのところへしゃべりに行ったら、教えてくれた。翌日の課題がヤバイと耳イヤホンで集中するEさんが隣にいるので小声である。
(たぶんもう留年確定の連絡もいってます)
(まだギリセーフですよ。いま六週めで、二週めまで来てたので──)
(やっ来てたの先生の授業だけなんですよ。他は初回から来てなくて……)
(……)
「やめたんですよ」
課題から目を離さず、耳から栓を外さず、Eさんが吐き捨てた。
後期の試験日、配られた名簿の最上段には長々と二重線が引かれ、備考欄に「退学」と刻印されていた。だれよりも悲しく「今」を、だれよりも潔く「気分」を、だれよりも美しく「自分」を叫んでいた"My Future"は、今もあちこち滲んだままファイルの中にある。
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