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『女子大に散る』 第8話・パパを探して


 しばらく図書館をうろうろしてから帰路についた。停留所に大学始発バスが待っていた。午後6時を回ってガラガラで、おそらく最終便だろう。これぞ渡りに船と朝タクシーで来たことも忘れて飛び乗ったら、

「あ~せんせ~」

 二年生のOさんが降車口そば二人席の先頭をニヤニヤ占めていた。毎度のように三限で一戦まじえてきたところだ。

──次、Oさん。
──えっとお、……
──ん? もっかい。
──だからあ、……
──やべえ全然聞こえねえ……
──エッへせんせおじいちゃん~。
──最近なんか字もピント合わないんだよな、これくらい離さないと。
──まじ? 老眼じゃん。
──腰も痛いし、もうだめだな……
──じゃあ今日はもう授業やめよ?
──やめぬ。
──チッ。
──そんなわかりやすい舌打ちあるかね。
──アハハ!

 デザインもサイズもゆるいTシャツに細身の七分丈デニムが似合う、度なしの安っぽい大ぶりメガネをかけて肩にかかる髪をインナーカラーで明るく染めて、ハイビスカスでも咲いているように笑う学生である。

「歩きじゃないの?」
「腹減ってむりめ」
「あたしもへったあ」
「今日って四限終わりじゃなかったっけ」
「そうなんだけど補習あってさア、──あっ座っていいよ」

 手すりにつかまりしゃべっていたら退けの職員がゴタゴタ乗り込んできて、誘われるまま隣に座る。生活圏についてはいつかバスから見かけたと報告されたとき話していた。

「せんせのうちって駅のこっち? あっち?」
「こっちだな、バス停も駅のいっこ前が一番近い」
「いっつもどんくらい歩いてんの?」
「40分くらいかな、おれの足で」
「へえ、あたしも高校チャリこわしてから片道35分ぴったりだった」
「チャリってどうやったら壊せんのよ」
「アハハいろいろあったの!」

 ぶつぶつ運転士がアナウンス、ビーッと鳴ってドアが閉まり、立ち客ちらほらで走り出した。丘を登って下って住宅街を抜けて私鉄駅まで、十数の停留所を経る約20分のバス行である。

「いいなあ近くて」
「一人暮らしは?」
「むりめ~お金なあい」

 Oさんは片道1時間半かかる実家暮らしだった。私立女子大は良家の令嬢ばかりと思われがちだが当然そんなものはごく少数で、昼食おやつも抜いてグンタマチバラギ各所から都内まで通いつめている学生も多い。そんな苦労を大なり小なり減らせるならと、

「せんせあたし飼わない!?」

 危ない橋を渡ろうとする若い身空は後を尽きない。はなから首を傾けてきて控えめな声量だったが、いくら「買う」ではない抑揚でも前後左右が気になり目だけきょろつく。

(だいじょうぶだよ)

 ニヤリ囁かれた。実際だれもが耳を塞いで手もとに夢中だった。

「ね、飼ってみない?」
「残念ワンルームです」
「いいよ狭くても、玄関とかにちょこっと置いてくれたら」
「そんなの体壊すだけだよ」
「じゃもっと広いとこ住んでよお、ってヒジョーキンだからお金ないっか」
「ガハァッ」
「ひーッ!」

 吐血するふりをしたら押し殺しぎみにのけぞった。Oさんのクラスでは春先に「保険制度」の話題が出てきて、比較参考にと大学非常勤講師の懐事情を自虐ぎみに晒したことがあった。

「こんな田舎に住んだってつまんないだろ」
「そお? ──まあイナカではあるけど」

 夜の帳に包まれつつある民家と畑ばかりの景色を示したら、体ごと窓を向いた。そのまま広角を得ようとしてかグッともたれてくる。

「でもつまんないかは、いっしょに住む人次第でしょ」
「……」
「でしょ?」
「……まあな」

 左の肩から二の腕にかけて遠慮なく背が押しつけられ、かぐわしい風がよぎって、グウの音も出ない。

「アッここ、この前せんせ傘と遊んでたとこ」
「そんなことあったっけ」
「あったよ。5月20日15時17分、ふふ」

 温かな軽みがくつくつ揺れる。峠越えにかかるバスはブウウンと快走そのもので、夕飯時の人影なき停留所を順々と通過してゆく。

「撮ったな」
「……」
「消せ」
「やだ」
「なんでだよ」
「あはは!」
「あのな、人には肖像権ってのがあって──」
「まあまあ見て見て、超おもしろいから」

 手中のスマホをほぼ同じ視座で見る。季節外れの暴風雨に裏返されたビニール傘と格闘する三十路半ばのびしょ濡れが、徐行の速度で右から左へ舐めるように映し出されている。

「プッだっさ……」
「消しなさい」
「むり~、クックックッ──」

 飽かずリピート再生する薄着が震わしい、ところへSNSの通知が届き「あっ」といじりだしたので目をそらした。

「あたしもパパ探そっかなあ」

 ふとつぶやいたと思ったら、駅前通りへと曲がる十字路で信号に引っかかった。車体が揺れ、人垣が揺れ、苦学女子とその即席人間椅子とがそろって揺れる。

「しってる? A美、今月から恵比寿のマンション8階で一人暮らし」
「えっまじで」

 Sさんは、いかにも頭からっぽ中年が好みそうな「ザ・清楚」を地で行くなりした学生である。はじめましての日から提出物に色ペンで一言やハートを添えられ、過剰なまでに目を遭わせてきて鼻を掻いたら真似され、と小細工を弄してきて、学生うちでも呆れられていた。

「めっちゃいいとこ。見て──」

 こぎれいなリビングやらウォークインクローゼットやら間接照明が、しゃらくさいアペリティフやらスイーツやらアクセサリー各種が、つぎつぎ現れては消える。

「金回りいいの見つけたんだな」
「IT系の社長、奥さん子持ちの43」
「ひええバカだねえ」
「バカだよ、二回も堕ろしてまだ付き合って」

 スマホを伏せて吐き捨てた。街灯や照明やヘッドライトなど一切拒絶といわんばかりの暗いまなざしと窓越しに遭う。

「口止め料か……」
「まじクズじゃない?」
「男がな」
「A美もだよ」

 言い放って、移ろう光をむっつり目で追いだした。半あぐらの背がじんと熱っぽかった。

「ホンジツモ〇〇バスヲゴリヨウイタダキ──」

 沈思黙考の支えと化したまま最寄りのバス停を見送り、終点まで行った。ガサガサ下車する乗客の最後に続いたら、

「クズすぎ!」

 ステップから降り立つと同時に叫んだOさん、声は駅南口からとめどなく溢れくる大同小異の背広の群れにたちまち呑み込まれて消えた。

「あたしが教えたって、A美には言わないでね」
「大丈夫。もう寄ってこないしな」
「せんせ嫌われちゃったもんね」
「貧乏だからねえ」
「アハハ!」

 Sさんは「保険制度」の回をしおに人文系の非常勤講師からは離れていった。課題は殴り書きの適当になり、指名しても下向きぼそぼそ、板書すら滅多に見てこなくなっていた。

「来週の実技ペアなんだよね。なんかハッキリ言っちゃいそうでこわい」
「言っちまったら言っちまったときよ」
「だめでしょ、あと2年半あるし……」

 看護学部生は学年単位で過ごすので、いわゆる同期とは毎日のように顔を合わせる。ちょっとした不満や不審の吐け口がなく、抱え続けて膨れ上がっって病んでしまい、留年や中退に至る学生も多い。

「割り切るしかないよな、仲良くできるところだけ見るっていうか」
「ムズそ……クズはクズだし……」

 人足ごった返す南口の隅っこで向かい合うと、ちょうど改札から出てきたところの巻き髪の二十代半ば会社員らしきがカツカツやかましく近づいてきた。そばに立っていた四十路らしき若作り頑張り系トニック汁ぷんぷんスーツがスマホを掲げ小さく振った。

「いったんSさんのこと抜きにして考えてみるといいかも」
「どやって?」
「たとえばさ、──昔々あるところにハタチの女性がいました、贅沢がしたいです、妻子あるお金持ちと知り合いました、その人に体と時間を売ってきました、赤んぼができました、頼まれて殺しました、もう一度そうしました、お礼に豪邸を買ってもらいました──」
「いやクズクズクズ!」
「どのへんがクズ?」
「ぜんぶ!」
「待て待て、ハタチの女性は全員クズじゃないだろ。自分までクズになっちまうぞ」
「は、たしかに」
「贅沢したいってのも悪いことじゃないよな、おれだってワンルームいやだし」
「──あっなるほどお……」
「クズなところを明確にしといて、そこだけ切り離してな」

 巻き髪とスーツが、ほぼ同じ背丈でぼそぼそ嘘くさい名を口にしながら、すぐ隣でお辞儀しあっている。語学の奥義に至りつつある瞳がちらとそれを盗み見た。

「──結局なんか気つかわされてるみたいでむかつく」
「まあ賢くなっても損しかしない時代だしなあ」
「賢くなったの? あたしが?」
「そうよ、今のは物の見方の一つだからな。ハタチなんて腐るほどいるけど、そういう見方ができる目を持ってるハタチは滅多にいないぞ」
「まじ?」
「まじ。おれが言うんだから間違いない」
「エッヘ、ならまあいっか。──あっおなか鳴っちった」

 きらり八重歯がはにかんだ。スーツがにたにた個室のあるチェーン居酒屋の方へ足を向け、笑いあうところへ一瞥をくれてからカツカツ両脚を交差させてついていった。

「だってめっちゃ頭使ったし!」
「まあまた来週な、ちょうど快速が──」
「ううゥ~」

 ひとしきり笑って改札口の電光掲示板を見上げたら、ふいにうなった。笑顔の余韻の中で柳眉をしかめて、みるみる潤んではつうと一筋垂らす。

「エッ」
「ン~!」

 なにかどこかが決壊したかのようにぼろぼろ止まらない。空腹に添えていた両手でダテ眼鏡を外して押しつけてきた。

「……」
「わァかぁん~なァい~!」

 受け取り唖然と見つめていたら、まだ心なし笑みつつ小さく金切り声をあげた。頬であごで両手を濡らしながら鼻をすすり、スーツと巻き髪の消えていった方へ体ごと向いて、

「あはは、おなかすきすぎた」

 横顔はうそと言っていた。なにも言えなかった。鞄の中のハンドタオルを差し出したら、ひったくるように受け取り隠れた。

「……」

 初夏、花金の肥溜めのような雑踏のただ中で、乙女が一人泣いていた。



悪は蔓延はびこり 善は死ぬ

シェイクスピア






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