メメント・モリを忘れない
当代たくさんの挿絵画家が活躍されているが、「酒井駒子」の名前は特別だ。めくるたび消えてしまいそうな儚い線と色づかいで、あれもこれも擦り切れるほど読んできた。
というのは歳をとったからこその感慨だろう。子供のころはただ、動物の、少女の、静物のおりなす空想を、冒険を、物語を、豆球に照らされた暗がりの中で自ずから描いていた。
……というのも美化に違いない。
昔の感覚を今ことばにするなんて、どれほど無粋な試みだろう。一言半句でさえ、あのころ去来していた一片にも満たない。どれもこれも嘘、うそ、ウソ、言葉、老いて絵本を手にするときはいつだってむなしい。
本作ほど、そんな無垢と経験の絶望的なまでの逕庭を味あわせてくれるものはない。それほどこの絵本は重い。
子守唄めいた優しげな文体にとげとげしいまでの濃淡、この残酷なまでの画文一如が淡々と「死」を結晶させている。
例えば灰を鏤めたような空白と無言のページに続く、冷え冷えとした小さな骸に精一杯ほどこした血のような朱のおめかし一点、
死は、終わりは、すべてに訪れる。だが音楽は、芸術は、不滅である。やまねこのヴァイオリンに聴いたくまの福音は、昔はよくわからなかった。今は身が千切れそうなほどよくわかる。
生あるところに死は必ずある。なのに一方は称揚され他方は隠蔽される。それを暴こうとすると「フキンシン」の雨あられ。そうして今も誰かが誰かの「生」を軽んじて、もてあそんで、蹂躙している。誰かが誰かを縊らせて、投身させて、入水させている。
古くから洋の東西で謳われてきた「メメント・モリ」を忘れた当世、絵本を子供のものとバカにしていては見るべきものも見えやしない。
むなしい、むなしい……
完
『くまとやまねこ』湯本香樹実・酒井駒子 河出書房新社、2008年。
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