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四月の底ゆくフラヌール


 物心ついたころから冬好きなのは確かなのに、持病の腰痛のせいで年々冷えと寒さが億劫になってきている。今年もお彼岸ごろまで散歩すらままならないほど不如意が続いて、仕事を除けば食糧調達くらいでしかロクに外出していなかった。

 年度改まり心機一転、まだ日によっては固い腰を引きずってリハブリハビリにと歩きだした。マンションの階段を下りているだけで左側さそくが尻までジンジンするので、「あんよ﹅﹅﹅は上手」の要領で右足左足ゆっくりのっそり、さながら冬眠明けのクマだ。

雪中に穴居するは熊のみなり。熊は手に山蟻をすりつけ、これをなめて穴居の食とするよしいひつたふ。

『北越雪譜』

 前に読んだ江戸期の典籍に、雪山で遭難し冬眠中のクマの寝床へ迷い込んだ人の逸話があった。万事休すというところ毛皮に包まれて、掌いっぱいのアリを舐めさせてもらい飢えを凌いで、春には生還したという。いわく「甘かった」そう。

 その幸運な人は名を魯瓶久里須といい、恩人もとい恩熊を「ぷぅ」と名づけて焼飯やらメザシやら携えて遊びに行くようになり、あるときその縄張りである百坪の森(狭ッ)に闖入してきた裏字井身留なる獣を力合わせて撃退して、──というのは読後の白昼夢だった。

原作挿絵(彩色版)

 閑話休題、幼時アリを口にしたことのある身からすれば「甘い」は信じがたい。咀嚼する直前で祖母に止められ逃がしたとき、舌に残っていたのは思い出すだに目も冴えるほどの酸味だった。

 目下アリは特定されているだけでも1万種以上いて、日本には3~4百が生息しているらしいから、味わいも千差万別なのかもしれない。あるいは魯瓶久里須のころから二百年余りの時を経て、そんな子供の残酷から身を守るべく種ごと進化を遂げているのかも。

 ところで夜ときどき足裏や膝裏がごにょごにょする、あの皮下を小さきものが蠢いているような不快感を、生理学では「蟻走感ぎそうかん」という。「蟻の走る感じ」とは言い得て妙だが、いまだ原因は定かではないらしい。さてあのときのアリって本当に逃がしたっけ、ねえばあちゃん────

 そぞろな足並みに従って思考も散漫とりとめない。山手の住宅街を縫うようにねりねり進む姿は鳥瞰すればまさにアリ、あちこち庭先にほころぶ色とりどりを眺めているうち腰もほぐれてきた。痛いからと引きこもり安静にしているより多少は辛抱して動いた方が腰痛にはいいらしい、という何度めかの経験知を胸に刻んで進む。また次の冬にはたぶん忘れているが。

 歩くのは嫌いじゃない。生れも育ちも西国の片田舎だからか散歩は趣味ホッビイというより習癖ハビットみたいなもので、上京してこのかた「ちょっとそこまで」の距離感が都会育ちとまったく異なるらしいとは何度も思い知らされてきた。

 同年代になじめず友人のいなかった昔から、なにかといえば一人で歩いてきた。犬や母が一緒ということもあった。今も帰省すれば母といろいろ話しがてら近くの山を散策する。道すがら「これは〇〇、あれは△△」と木花草花の名を片っ端から教わってきたおかげで、ツバキとサザンカを、ナンテンとマンサクを、ニラとスイセンを取り違えることもない。

 スイセンといえばギリシャ神話の美男子ナルキッソスだろう。美の女神アフロディテや天罰の女神ネメシスを嫉妬に狂わせるほどの美貌で、彼自身さえ湖面に映るわが身に一目惚れしてその場から離れられず衰弱死、そこに咲いた花とされ、学名もそのまま"narcissus"があてられている。

 名称は漢語「水仙」に由来するが、厠で用足しより鏡にへばりついている諸兄をナルシスと呼んだり、ナルシシズム(自己愛)という心理学用語が普及していたり、おおかた現代日本では洋語の方にこそ親しみがあるかもしれない。和名では「雪中花」というが、分厚い白にひしがれる健気な黄色には、なんだかこれが一番しっくり来る。

『エコーとナルキッソス』
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス (1903)

 そうこうするまに見晴らしのよい公園へと辿り着いた。花ふきこぼれ風やわらかく日まぶしく、あはれ天津風の通い路の果てにうっすらけぶる富士の山を拝む。息を吐くたび冬じゅう溜めこんでいた鬱気と瘴気が脱けてゆくようで、クマもアリもおしまい、ようやく人心地つきながら、なぜ「陽気」が人間と大気との両方を表すのかを文字どおり体感する。

 見下ろせば川ぞいの桜並木は黒山の人だかり、誰もが手に手にスマホを掲げてんでいるのが遠目にも窺えて、

「春来たりねぐら這い出し皆同じ」


『ヘリオガバルスの薔薇』 ローレンス・アルマ・タデマ (1888)


 汗ばんだ顔がひゅうと冷ややいで、ひらり何かが頬をかすめた。虫かと払いかけた指先のがれて舞い上がる淡紅いろの花びら一枚が、真午まひるの黄金まとって底抜けの蒼穹へと高く高く飛んでゆく────

 心ばかりダンディ気取りの遊歩者フラヌール、いまだ修羅になりきれぬデクノボーが、つごう三十九度めの四月にあり。

 あと何度、あと何度、この四月にめぐり会えるのだろう。



ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

宮沢賢治







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