『女子大に散る』 第6話・えくぼの悪魔
なんだか気だるくて早めに四限を終えた。ごった煮でよくわからない残り香ただよう教室で、消灯して、窓辺の空調棚に腰掛けてボーッとしていた。
五限始まりのチャイムが鳴った。午後4時半前、同じ階にわりあてられている授業はない。ようやく止んだ梅雨の雲居を静かに青が裂いてくる──
「わっ」
あけっぱなしの前扉から花車がひょっこり、
「びっくりしたあ」
「アハハしなないで」
三年生のSさんだ。相変わらず黒と白を基調に赤の点景をちりばめたゴシック風の粧いが板についている。
──次、Sさんお願いします。
──え、やだ。
──順番順番。
──来週から一限じゃなくしてくれるならいいですよ。
──そうしたいけど、非常勤には時間割を決める権限ないんですよ。
──え〜じゃあ今回はごめんなさい。
──そこをなんとか、お願いしますよ。
──先生読んでみて、ゼア、アー、はい。
──There are more things in heaven and earth、って違うでしょ。
──ダッハ発音よ!
──ダッハって元気かよ。ほらいけるいける。
──え~、ゼア、アー、モゥレ、
──モア。
──モア、スィ、スィングス、イン……
見かけによらず気さくで鮮やかなえくぼが印象的な学生である。英語科目は二年次で終わりなので半年前に会って以来なのに、
「久しぶりですねえ」
「おひさ~、じゃなくて聞いてくださいよお」
先週ぶりかのような物腰で目の前の一席にやってきては座り込んだ。
「まじ危機、留年かも」
「あら、ついにスマホ没収か」
女子大で頻繁に耳にする、学業面での失態の罰バイ母親の筆頭だ。
「そうその生命倫理ですよ! 中間レポート出すの忘れてて、今日中に提出しないと『不可』だって、さっきメールきたんです」
生命倫理は二年次前期の必修科目、前年Sさんは欠席多しで早々と落第していた。看護学部は三年次まで必修科目づくしなので一コマでも落とせば留年する確率が飛躍的に上がる。この世の終わりのような顔をしていたので「スマホ没収は母の愛」と慰めてみたら、
──でも先生スマホ持ってないんでしょ。
──確かに、説得力ねえな。
──アハハろんぱろんぱ。
減らず口を叩いては運よく再履修できることを知った翌週あっけらかんとしていた、今その再履修中というわけである。四年次はまるまる病院実習につきもう落とせない。
「字数は?」
「2千以上2千5百以内」
「あと八時間で2千か……」
「むりですよお、去年と違うテーマだし……」
大学なんて名ばかり専門技能マシーン養成機関で二年以上を過ごしてきた看護学部生には、実際ほぼ無理難題である。
「とりあえず図書館だな、倫理学系は二階の右奥あたりだったはず──」
西の空が黒ずんできていた。また降りだすかと教卓で荷物をまとめだしたら、
「えっ先生帰るの?」
「帰る帰る、濡れたくないし」
「──あ、なんか書けない気がしてきた、むり、あ、むりだ、どうしよ」
わざとらしく頭を抱えた。
「ハハハなんだそれ」
「むりい!」
乾かすのが難儀そうな長い艶ある黒髪ごと机につっぷした、と続けて蚊の鳴くような涙声をしぼる。
「留年なんて地獄、そんなん地獄……辞めちゃうよお……」
看護学部生はサークル・部活動にかかるひまがないこともあり、先輩後輩のつながりはほぼない。つまり留年は孤立に、後ろ指と陰口に直結する。目下まさに一コマだけでも再履修中のSさんは、それを大なり小なり体験しているのだ。
「う、うぅ……すん、すん、……」
字に書いたように喉を震わせ汁気なき鼻をすすり、火を見るより明らかなウソ泣きに至った。見ていて小っ恥ずかしくなるほどヘタで、おかしい。
「…………で」
「で!?」
待ってましたと跳ね起きた両目はきらきら、
「やっぱ帰ろ──」
「これなんですけどお!」
行きかけた裾を左手につかまれ引き寄せられて右手のスマホを示される。
「カントの道徳論を簡潔にまとめた上で、安楽死についての医療従事者としての考えを、消極的安楽死と積極的安楽死の違いを明確にして述べよ──」
「明日の課題もやんなきゃなんですよお」
猫なで声で裾が左右に揺さぶられる。それはみんな一緒だなんて野暮なことは言わない。そんなこと彼女にもわかりきっている。わかっているが、いろいろあるのだ。
「じゃあ今回だけな」
「ほんと!?」
「最初からおれにやらせるつもりで来たんだろ」
「ちが! 今日は先生に会いたかっただけ!」
「うそつけ」
「キシシシ」
ひょいと爪先立てば腰をかがめれば接吻してしまいそうな距離で、徒手空拳の人文学徒にえくぼをぴつぴつ悪魔が嗤う。
「あっ資料もあります──」
「そうね定言命法、まあ2千字ならここでやるか」
「ここで?」
「図書館は教員も出入りするし、帰ったら寝ちゃいそうだしな。ちょっと待てよ……」
「まつ」
荷物を放って、縁がデコってある授業用タブレット中の資料をめくりながら練る。Sさんは椅子にしっかり座り直し、後ろ髪をふうわり首の裏からそよがせて、スマホを両手持ちに構えた。どん曇りの空に青は跡形もない。
「まず序論からな」
「どうぞ」
「……本稿は、昨今さまざまに議論されている安楽死について生命倫理の観点から考察することを目的とする。はじめに、授業で扱ったイマヌエル・カントの道徳論について簡潔にまとめる。次に、──」
思いつくまましゃべりだしたら、血よりも濃い赤色の長い親指の爪と爪がポロポロ目にも止まらぬ速さで動き出した。
「──最後に、自身が医療従事者になったと仮定して、本稿で得られた知見にもとづき安楽死について意見を述べたい。何字?」
「……述べたい、まる、273。ホンコウってこれ?」
「合ってる合ってる、でもチケンはそれじゃなくて知ると見る」
「知る、見る、おっけ」
「段落変えて、まずはカントの道徳論についてまとめる。カントは道徳の基準を考察する上で三つの定式を規定した。第一は普遍的法則の定式であり、第二は──」
再びポロポロ始まる。カントなんて口にするのは何年ぶりか、タバコが吸いたくてしょうがない。
「──言い換えれば、そんな理性と自由意志による自律を重視することが、カントの道徳論には読み取れるのである。いったん休憩」
「──ハア! 915! きち~」
息を止めていたかのように吐き出して、スマホを机に置くやのけぞり伸びをした。首までぴったり包む白フリルつき黒のブラウスに小高い輪郭が二つ、暗転しつつある教室にまざまざと冥い。
「安楽死には賛成反対?」
「さんせい」
「これもういいや、ありがとう」
起きてきた。タブレットを蓋閉じ返して、
「じゃ改行して、定言命法にもとづいたカントの──」
「まってまって! ハイどうぞ──」
五限終わりのチャイムが鳴った。久しく自動消灯されている廊下と今にも降り出しそうな空のせいで階ごとまっくら、スマホだけが明るく凶器のように尖った親指と真剣な顔つきをぼうっと浮かばせている。
「──医療従事者の使命が患者の幸福追求権をサポートすることにあるのなら、安楽死の意思は尊重すべきだと思う。おわり」
「……すべき、だと、思う、まる、2182! おわりい!」
「──まあ序文もこのままでいっか。あと語尾とか自分っぽく修正しとくようにな」
「りょー!」
「アアつかれた……」
ごろり空調棚にあおむけで寝転んだ。机上の四角い液晶ライトが消えた。指に頭に酷使しきった二人の息づかいだけが闇を行き来する。
「先生すきい」
「ん?」
「先生すきい」
「好きなら残業代くれ」
「じゃあごはんたべいこ! おいしいパスタのお店!」
「いや明日の課題もあるんだろ」
「──えッヘ?」
「……」
「いひひひひ」
「よしスマホ貸せ、お母様に代わって叩き割ってやる」
「アハハむりでえす!」
ガタンとエレベータホールから音がして、廊下の電気がついた。ハッと顔を見合わせるや薄明かりのえくぼがにんまり、
「行きましょ、おごりますよ」
留年していたら学費だけでも二百万円は余分にかかっていた。それを千数百円のパスタで帳消しという魔道の算術ここに成る。
「今日は帰ってさっきの修正しな」
「え~たらこパスタあ」
「早めに提出して印象上げといた方がいいだろ」
「まあ……」
言いながら廊下に顔だけ出して様子をうかがう。エレベータホールに清掃作業用の荷台あり、と見るや細ましい体躯が腕に絡みついてきた。
「残業代」
「安いもんだな」
「ひどくない!?」
腕に腕組みひそひそ反対側の教職員用エレベータまで早足で行く。狭い箱内でも離れず、一階に着いたら並びで進み出た。
小雨が降り始めていた。手持ちのビニール傘を差しても、片腕にバッグと引っかけている晴雨兼用らしきをよそに引き続き寄り添ってくる。
「自分の差しな」
「壊れました」
「いつ」
「いま」
悪天候と終業後で閑散たる構内を、まるで新婦新郎のようにゆったりと、だれにも祝われず呪われず、堂々と横切る。
「先生傘のさしかたじょうず」
「上手いも下手もあるかね」
「ありますよお」
口ずさむ体は妙にひんやりとしていた。
「もうバスないですねえ」
「始発以外ならあるだろ」
「座れないからやだ。先生どこ住みでしたっけ」
「〇〇、歩きだよ」
「エッじゃあ送っていきますよ」
「早く帰って仕上げなさいって」
「え~残業代は~?」
「もう十分もらったよ」
「たりない~」
それが雇用した側のセリフかとつい笑ったら、とたん腕をギュッと抱きしめられた。
「それは鼻血出る」
「出して」
正門まで整然と並ぶ暖色の灯火が、ビニール傘に点々と落ちる雨粒に乱反射して、綺麗だった。途中で引っ張られて、守衛の詰所からは死角になっている裏道を遠回りした。
「まあまたいつでも来な」
「うん」
寄りかかる体をそっと離すと、眠たげな目がうなずいた。ほほえむえくぼに影がさして、かぐわしい紅の口角から右へ左へ翼をはためかせているようだった。
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