短編小説 悲嘆惨憺ダップンタン
午後3時過ぎ、電車に乗り込み尻を落ち着けたとたん、朝にコーヒー昼に水あと飴ふたつ以外なにも入れていない腹がグルルとわめいた。どうも夜まで保ちそうにない。
最寄りに着いて、駅ビル2Fの寿司屋に直行した。閑散たるカウンター席をひとり占め、百円皿をよりどりみどり食い喰らう。あおさ味噌汁シメに飲んだらうつらうつらとやって来て、さっさとお会計に立った。
「ありがとございましたあ」
学生アルバイトに見送られ階段を下り、秋空の下に出るや、へそ下がギュルルとうごめいた。目方5kgが下腹にまざまざとある。臀部を締め上げ、氷上を滑るようにするりするりと帰路を行く。
「へい へい へい ときには起こせよムーヴメン」
波状の蠕動しのぎに頭で歌う。なにもかも衰える一方の昨今、括約筋とて頼りない。朝一からの語学を引きずるどこかが応える。
「大便は"bowel movement"ともいうがこれは婉曲語法でブラブラブラ」
どうしてこんなときほど1秒が10分に、10秒が1時間に感じられるのだろう。これも"relativity"の解説に、まあ使えまい。
「3てん141592653589793238462……」
ピイクと決壊のせめぎあう中ブツブツ暗唱しだしたら、あちらからやってくるおばあさんにウッフと会釈された。
「ああおばあちゃん、そんなお笑いになって、うちに帰ったらご主人に『いま小走りの人とすれ違ったのよ、どう見てもウンチを我慢してた大学非常勤講師だったわねえ』とかお話なさるおつもりでしょう、構いませんのでティッシュをくれませんか、たのむ野グソをさせてくれ──」
「トロットは馬術用語で跑足だが人を主語にすれば『トイレに駆け込む』という意味であり馬は一日20kgも排便するが馬車が身近だった欧州各地では往来がその糞便まみれになるので女性のヒールが発明されてブラブラブラブラ」
「ぷすり、ぷす、ぷす──」
歩を進めるたび斥候が顔を覗かせる。いちいちチャイコフスキー大序曲の号砲みたく轟いている気がしてならぬが、もはや後方を気づかう余裕もない。
「わん! わん!」
鬼気を嗅いだかイヌに吠えられ冷や汗トロットロ、ようやく自宅が見えてきて、気を取り直しアナ締め直し、ケツ意を固める。拙宅は3階、エレヴェイタなんて利器はない。
そういえば昔ハイデガーを読んでいて「ダス・マン」という術語に出会い、ググってみるも中黒を忘れてトップヒットが『うんこダスマン』、絵本、あれは笑ったなあ──
「フンッ……」
走馬灯かと鼻から息が漏れ、それで脱力してしまったか、どこか諦めがあったのか、なにを血迷ったか、せっかくそこまで耐えてきたのに常と同じく一段飛ばしで、大股びらきで、階段にさしかかってしまった。
「バフ!」
破裂音、すわ、許可なき巨塊がもりもりあふれる。二足めが出せず直立不動、ぬるり溜まりゆく異物感、指を突っ込み栓する対症療法的発想ひとつなく、人の気配なきこと有難がりつつ、待つ。
汗ばむ体がひえびえとして、一点だけぬるい。打ちっぱなしの階段の窓から差し込む西日がまぶしい。さりとて心地は悪くない。
「フロイトのいう肛門愛とは幼児退行のことでありブラブラブラブラ」
ゆっくりと、一段ずつ階を行く。尻から腿にかけて漱石『夢十夜』か重たすぎる荷、ゆるくないのがもっけの幸い、なるべく被害が拡がらないよう背筋をぴんと張り、しっかりと踏みしめる。
「ここなる門をくぐる者、すべて希望は捨てるべし!」
玄関ただいま靴脱ぎベルトを外し、右手のユニットバスへ、ズボンと下着をひと息ずり下げ尻を落とせば、見よ、股ぐらに現れし一塊を。
「カレーパン焼き上がりましたあ」
ウン、こんもりと、ふっくら楕円でほかほか湯気立つまがまがしき茶の一塊を。そして見よ、中央チョコンと黄の点景を。コーンひと粒、ゆうべ作ったシチューの具なり。
「これぞ奈落の眺めなり!」
略式のお茶会かと背筋を伸ばして座り込み、立ちのぼるぬくもりに顔面を撫ぜさせる。むごすぎる視界に圧され麻痺したか、なにも匂わない。
「……」
中腰になり、下着越しに裏から押し上げ、りんと張りつめている溜まりへ、一塊を落とし込んだ。ダプンッ、と冷たい底に沈んでいった。
シャワーを引き込み尻を洗い、済んだらバスタブ内で汚れ物をば洗う。粛々と、もったいなくも湯を流し、石鹸で揉み濯いで絞るを繰り返すうち、泡のせいだか湯気のせいだか目がしみた。赤いTシャツ一枚おしりまるだし、ときどき手首で目をこすって、さながらくまのプーさんだ。
「これ原作の挿絵なんだけど、裸だろ。赤いのはディズニーの後付けだからね。こっちは彩色版、全身茶ばんだ黄色だ。そもそも"pooh"は幼児語でウンチ、つまりぼくらはウンチをかわいがっているわけだね。子供がウンチに嬉々とするって東西共通なんだねえ」
お元気ですかT先生、長らくご無沙汰しています。その後お加減いかかでしょう、認知症の方は────
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