記事一覧
ディズニー・プリンセスの系譜
【1】
2013年に『アナと雪の女王』が公開されたとき、「旧来のシンデレラ的な価値観が遂に否定された」というようなことを言う人たちがいた。今でもそういう認識の人は多いかもしれない。
なるほど、『アナ雪』ではプリンセスにかけられた呪いを解いたのは王子様のキスではなかった。プリンセス自身の真実の愛が呪いを解いた。そもそも、ひと目見て運命の人だと確信したハンス王子は運命の人でも何でもなかったし、本当の
『アナ雪2』と「始まり」を描く力について
『アナと雪の女王2』にハマっている。この記事を書いている時点で7回、映画館に行って鑑賞している。資金と時間があればまだ行くかもしれない。私の見るところ、『アナ雪2』はディズニー映画の(今の段階での)最高傑作だと思うし、ディズニーの歴史における重要なターニングポイントとして記憶される作品になるのではないかと考えている。
『アナ雪』シリーズの作品(ショートムービー等も含む)を観ていて感じるのは、これ
【高校生向け】現代文の読み方(超入門編)
書き言葉を理解する難しさ現代文の文章は日本語で書かれているのになぜこうも難しいのでしょう。ひとつの理由は、話し言葉と書き言葉の違いです。話し言葉と書き言葉は同じものではありません。話し言葉は日本で生活していればある程度自然と身につきますが、書き言葉は自然に使いこなせるようになるものではないのです。
話し言葉は「いま・ここ」にいる「私」と「あなた」とのコミュニケーションのために使われるものです。直接
【高校生向け】小論文の書き方(超入門編)
小論文入試の目的入試で小論文を課す目的は、大きく二つに分けられます。ひとつは、その大学の学生に相応しい能力があるかを測定すること。もうひとつは、その大学の学生に相応しい価値観と問題意識を持っているかを見極めることです。
小論文で測定できる能力とは、ひとつは(言うまでもなく)論理的な文章を「書く力」ですが、大抵の場合「読む力」も試されます。というのも、多くの入試小論文の問題は、何らかの文章(「課題文
評論文の指導について(2)
前回からの続きです。
前回の記事で私は「評論は常識を疑うところから始まる」と書いたが、この表現は必ずしも正確ではない。常識を疑うことは、評論の始まりであると同時に究極の目的でもあるからだ。「常識を疑え!」と教えるだけで生徒が常識を疑ってくれるようになるなら苦労はない。
常識を疑うことが難しいのは、自分の思考がどの程度常識に支配されているかを自覚できないからである。自分の意見がいつ、どこで、何者の
評論文の指導について(1)
評論は常識を疑うところから始まる。「常識を疑うこと」の重要性は、それ自体が評論文の主要なテーマのひとつとなる。常識を疑うことは哲学の始まりであり、哲学の始まりは学問の始まりである。だから、アカデミズムの世界では常識を疑うことの意義が繰り返し説かれる。
常識を疑うことの重要性、あるいは常識を疑うことの難しさを論じた文章を生徒が理解するには、生徒自身が常識を疑うことの意義を実感しなければならない。と
国語教師の役割について
我々は言葉を学ぶことで、世界を記述しそこに生起する出来事に意味と価値を付与し、他者と共同してコミュニティーを立ち上げることが可能になる。言い換えるならば、言葉の力とは個人がコミュニティーを形成するための資質の総体を指す。「国語力」とは、個人が国民国家日本というコミュニティーのフルメンバーとして参与することができるだけの言葉の力を意味している。
言葉の力について議論するときに、抽象的な「読解力」や
現代文の授業の基本的な考え方
現代文の授業の目的を一言で言うなら、「筆者(作者)の視点・問題意識を内面化させる」という点に尽きる。高校一年生の教科書に収録されている評論、『水の東西』を例に考えてみよう。
「筆者が何を主張しているのか」を理解させることはそこまで難しいことではない。「日本人は西洋人と違って形のないものを恐れない(だから目に見える噴水よりも「鹿おどし」を好む)」ということを言っているに過ぎない。読解法の観点で
『ミノタウロスの皿』についての覚え書き
ただ死ぬだけなんて……なんのために生まれてきたのか、わからないじゃないの。―主人公に逃げるように誘われたミノアの台詞―
藤子・F・不二雄の短編、『ミノタウロスの皿』は、人間(に似た種族)が牛(に似た種族)の家畜として扱われる地球によく似た惑星に漂着した宇宙飛行士の視点を通して、人間中心的な価値観を批判し、相対化した作品としてよく知られています。
主人公の男は家畜として飼育されている美少女・ミノア
社会に「閉ざされた」学校を目指して
次期学習指導要領のキーワードとされる文言のひとつに、「社会に開かれた教育課程」というものがあります。詳しい説明は文科省のHPなどを見ていただくとして(詳しい説明も何も、「学校が社会から閉ざされてるのはよくないよね」くらいの意味しか無いようにも見えますが)、学校が社会と連携すべきであることに異論のある人はあまりいないと思います。
学校の勉強は社会に出たら役に立たない。
こういう意味のことを主張す
「国語」とは何を教える教科なのか
読むというパフォーマンスは、たった一人の観客に向かってなされる。それは教師だ。
文章の解釈には正解がある。教師の解釈だ。
理解や解釈の「間違い」は許容されない。
アメリカの国語教師ナンシー・アトウェルが、伝統的な一斉授業を批判して述べた言葉です。先日出版された『イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室』の訳者による前書きで紹介されていたものの一部を引用しています。
アトウェルはアメリカ