専門性は細部に宿る

 お久しぶりです。垣内玲です。noteを書くのに飽きてほったらかしにしている間に、様々な理由のためにツイッターのアカウントは2回くらい転生する羽目になり、かつて2400人のフォロワーに囲まれて賑やかだったTLと通知欄の喧騒も今は昔。100人ちょっとのフォロワー様方と鍵垢でひっそりとやっております。

 最後にアップした記事が2020年の1月ですから、丸々2年以上ネットに長文を上げていなかったことになります。この2年の間、色々なことがありました。一番の変化と言えば、学校の先生でなくなってしまったことです。

 そうなのです。垣内さんはもう学校の先生じゃありません。この3月で、8年非常勤をやった私立高校を退職しました。

 今何をしているか、詳しくは伏せますが、不登校とか発達障害のお子さん向けの教育支援事業をやってる民間企業でお世話になってます。一応、教えるのが仕事ではありますが、いわゆる高校や塾での国語の授業というよりは、こじんまりとしたスペースで個別指導に近い形態で中高生(ごくまれに小学生)を教えているというような働き方です。
 正社員という立場上、先生業だけに集中するわけにもいかず、学校の専任の先生に校務分掌があるように、僕にも会社の営業とか事務のお仕事があります。ビジネス書を読んで営業とかマーケティングの勉強をしたり、エクセルの解説書を読んで事務仕事のスキルを学んだりしています。ビジネス書とか読んでると出典不明の謎科学とか、むさ苦しい精神論が無限に出てきて頭がおかしくなりそうですね。カントとか読んでた方がよっぽど気持ちが落ち着きます。

 今の職場の常駐スタッフに「先生」は僕だけです。僕だけでは理系科目とかは教えられないので、理系の大学出身の事務の人とかに数学とか理科は手伝ってもらったりはしていますが、その人たちはあくまでピンチヒッターですし、学校とか塾とか家庭教師として子どもを教えたり保護者と関わるような経験をしてきた人間は僕だけです。

 これがなかなか大変な立場でして、教務に関することは基本的には僕の好きなようにやれるという意味では気楽なのですが、何しろ職場に先生がいないものですから、先生であれば当然理解されるような常識的なことがどうも通じない、というようなことが起こる。
 もちろん、他のスタッフにしてもそれまで間接的にではあれ、教育というか学習支援というか、とにかく子どもとか保護者と何かしら関わってるわけですし、不登校とか発達障害についての教科書的な知識はあるのだと思うのですが、これまで僕が先生をやってきたなかで当たり前に身につけてきたこと、当たり前すぎて言語化してこなかったようなところについて、僕と他のスタッフとの間でいまいち話が噛み合わないということが起こる。
 詳細は書けませんけど、今日もそういうところで、他のスタッフとちょっとしたすれ違いが起こってしまいました。他人と、それも、専門性のまるで違う他人と一緒に働くって本当に大変なことですね。

 最近よく考えるのは「見守る」とか「待つ」とかいう言葉の意味です。特に不登校のお子さんと関わるときに、こういう言葉が使われます。不登校児童生徒に無理な登校刺激を与えるのは良くない。本人の気持ちが整うまで見守ることが大切なのだ、なんて言われます。
 実際、僕も不登校のお子さんと関わるときには、「待ち」のフェーズが必要だと思います。今は無理に勉強させなくても良いと思いますよ。ゆっくり心と身体を休めることが大事ですよ、とね。
 ただ、これって「何もしない」っていうことではないんですよね。当たり前なんですが。「見守る」とか「待つ」という段階のときに、先生は何をやってるんでしょう。多分、外から見ると何もやってないように見えるんじゃないでしょうか。

 当たり前ですが、僕らはずっと家に引きこもってゲームばかりやってる不登校生が、ずっとそのままゲームをやってて良いとは思っていません。勉強するのが難しければ、まずは先生とお喋りをするためだけに学校に行くとか、それが出来るようになったら簡単な問題集を1ページだけ解いてみるとか、そんなふうにして、少しずつ子どもをレベルアップさせていくことを考える。それが先生の仕事です。
 とはいえ、本人が「レベルアップのために行動や生活パターンを変えよう」という意志を持たない限り、こっちでいくらレベルアップのプランを考えても意味がない。だから「待つ」。
 けれども、ただ黙って何もせずに待ってるわけではない。待っている間に僕らは、レベルアップのための下準備をしているんです。
 たとえば、子どもと会ったときに「君にはこんな力があって、だからこういう可能性があるんだよ」などと伝えたりします。「いま・ここ」の生徒さんの姿ではなく、未来を見ているのだということを子どもに伝え、そのことによってちょっとだけ、子どもが自分の未来をイメージできるようになれば、それが次の階段を登るきっかけになるかもしれません。
 あるいは、保護者との間で、生徒さんの今後についての見通しを擦り合わせておく、なんていうことも大切です。周りの大人が一丸となって子どもを支えるためには、その子に関わる大人たちが同じビジョンを共有している必要があるからです。これも下準備です。
 それ以外にも、「待つ」「見守る」をやってる間に、細々とした仕掛けを用意しておくのです。こういうことは、先生をやっている人間であれば(言語化して説明できるかどうかは別として)多かれ少なかれ当たり前に実践していることなんだと思います。ところが、先生をやったことのない事務スタッフや社長(弊社の社長は教育業界出身ではないのです)には、こういう細かい機微がなかなか伝わらないことがある。
 不登校の子がうちの教室に来て楽しくゲームやってたらそれでいいじゃないか、くらいに思ってるような節もあります。いや、ずっとゲームやってるだけでなんも変化がなかったらダメだろうくらいのことはわかるでしょうが、うちでゲームやってるうちに学校にも行ってみようという気持ちが自然に湧き上がってきたりするんじゃないかくらいに考えてる可能性は大いにあります。瀬尾まいこの小説にもそんな場面がありましたね。『温室デイズ』っていう小説です。
 不登校になった女の子が親に言われて地域のふれあい広場的な場所に行かされるんですけど、そこでずっとお絵描きをしてるんですね。お絵描きをしてるだけで学校に行こうという気が起こったりするわけないんですが、しばらくしたら親に「まだ学校に行こうって思わない?」とか聞かれるっていう、そんな場面があるんです。
 実際、こういう親はいますし、先生の中にもこれに近い認識の人も少なくない。実際、そういう場所に行って好きな時間を過ごすことが、次のステップにつながる(「次のステップ」が必ずしも「学校に通えるようになること」であるとも限りませんが)場合もあるので、外から見てるとただお絵描きをしてるうちに学校に行くようになったというように見えてしまうこともあるのでしょう。実際には、次のステップに導くためは大人の積極的な働きかけも必要なのであって、ただ絵を描いたりゲームやってるだけで何かが変わるということはあまりないです。その働きかけは、本当に細かい工夫の積み重ねなので、実際に先生とかカウンセラーという立場で子どもに関わったことのない人には見えにくい部分があるのは致し方がないとも思います。

 僕は今の職場では現状唯一の先生であり、数少ない正社員の1人ですから、職場内での立場は非常勤講師だった頃ほど低くはないのですが、先生が僕1人しかいない状況で、他のスタッフと協調してやっていくという難しさがあります。僕が先生をやるためには、他のスタッフの協力が不可欠ですから、何とかして先生としての僕の立場や考え方を周囲に理解してもらわなくてはいけないし、ときには本来先生じゃないスタッフに、先生としての職業倫理というかプロ意識というか、そういうものを求めなければいけないこともある。
 今の会社の社長に引き抜き(?)の話をもらったときには、正直言ってこういう類の苦労をあまり想像していなかった。何しろ正社員にしてくれるのであれば、何がどうなったって非常勤講師で食いつなぐよりはずっとマシな生活になりますから(厚生年金に入れるし確定申告はしなくて良くなる!)、今の職場に来たことになんの後悔もないですし、人生にそう何度も訪れることはないであろう挑戦の機会ですから無駄にするつもりもない。それでも正直、職場の中に先生の仲間がいないというのはなかなかキツいもんだなという気持ちもあります。
 せめてもう1人、理系の先生とかが来てくれるとどれほど気持ちが楽かと思うんですが、そこまで資金繰りに余裕があるというわけでもないようで、しばらくは僕だけでやっていくしかない。なんにせよ、チャンスが与えられたのは幸運です。8年ぶりに職場が変わり、こうして文章を書こうという気持ちが湧いてくる程度には刺激を得ていると思えば、少なくとも長いスパンで考えたときには今の状況、トータルでプラスなのかもしれません。
 今後、皆様にはできるだけ良い報告ができるように努める所存です。どうぞよろしくお願いいたします。

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