【高校生向け】現代文の読み方(超入門編)
書き言葉を理解する難しさ
現代文の文章は日本語で書かれているのになぜこうも難しいのでしょう。ひとつの理由は、話し言葉と書き言葉の違いです。話し言葉と書き言葉は同じものではありません。話し言葉は日本で生活していればある程度自然と身につきますが、書き言葉は自然に使いこなせるようになるものではないのです。
話し言葉は「いま・ここ」にいる「私」と「あなた」とのコミュニケーションのために使われるものです。直接対面して話をするとき、私たちはお互いに何の話をしているのか、何のために話をしているのかを理解しています。だから話し言葉にはそれほどの厳密さが求められません。「ヤバい」とか「カワイイ」だけでも会話らしきものは成立するのです。
一方、書き言葉は「いま・ここ」にはいない誰かに向けて書かれます。「いま・ここ」にいない読者に、自分の考えを正しく理解してもらうためには、言葉を厳密に定義する必要が出てきます。「ヤバい」という言葉は話し言葉であればその時々の状況や発話のトーン等からプラスの意味なのかマイナスの意味なのかを判断することができますが、書き言葉ではそういう言葉を使うことができません。
また、書き言葉では主語・述語・目的語の関係を明確にしなければなりません。誰が(何が)・何を(誰を)・どうしたのかを曖昧にしてはいけないわけです。当然読む側もその関係を意識しつつ読む必要が出てきます。みなさんも、文章を読むときには主語や目的語、はじめは特に主語を強く意識して読むことを心がけてください。
理解して欲しいのは、日本語を使えることと文章を読んだり書いたりできることは同じではないということです。文章を読んで理解することに慣れていない人には、その為の訓練が必要であるという認識を持ってもらいたいと思います。
出題者の問題意識・価値観を共有する
とは言え、文章を読むことに慣れているからといって入試現代文が解けるとも限りません。読書は好きだけど現代文の問題は解けない、という人も少なくない。例えばみなさんは次の文章を読めるでしょうか。
道具と器具は、たしかに苦痛と努力を和らげた。そのために、従来は、だれの眼にも、労働に固有の緊急な必要が明らかであったのに、今やそれが曖昧になった。とはいうものの、道具と器具は、必要そのものを変えるのではない。それはただ私たちの感覚から必要を隠すのに役立つだけである。
別に難しい言葉は使われていません。けれども、これを読んで何の話をしているのか理解できる人はそれほど多くはなさそうです(ちなみに上の文章はハンナ・アーレントというドイツ生まれの思想家の『人間の条件』という著作の一節です)。文章を読んで理解することが出来ない最大の理由は言葉の意味がわからないことではありません。そもそも何の話をしているのかがわからないことです。
大学の先生のような、いわゆるインテリとか知識人と呼ばれる人たちは、「近代社会とは何か」とか「グローバル化の進行は私たちのアイデンティティーにどのような影響を及ぼすのか」とか「言語は私たちの思考をどのように規定しているのか」などといった問題について日々考えています。みなさんが入試現代文で読む評論文もそういったテーマを扱っています。そういう評論文の読者は、当然そのような問題に関心を持っている人たちであって、だからこそ書かれている内容も理解できるし楽しめるわけです。ところが、大学受験をしようとしているみなさんの多くは、(甚だ遺憾なことに)インテリたちが問題意識を持っているテーマに関心を持っていません。というより、考えたこともないという人がほとんどだったりする。
文章を書いた人間と、というよりも現代文の問題を作っている大学の先生たちと問題意識を共有していないのだから、文章に書かれていることの意味がわかるはずはないのです。
逆に言えば、インテリ・知識人たちの問題意識を知っていれば、どんな文章であっても「何を言っているのか」はわかります。入試問題として使える文章は限られていて、実際のところそれほど多様なテーマの文章が出題されているわけではありません。さらに、あるテーマについて論じた文章の結論も概ね似たようなものになります。「近年、先進国では移民や少数民族に対する排外的な感情が高まり、ヘイトスピーチが横行している」という内容であれば、「多様性を尊重する社会を作らなければならない」という方向性の議論になります。というよりも、この論点の場合、公的な教育機関である大学が排外主義を支持することはありえないので、どうしたって差別はやめよう、互いの文化を尊重し合おうという内容の文章しか扱えません。
つまり、みなさんが現代文を読むためにまずやるべきことは、大学の先生のようなインテリ・知識人たちの問題意識や価値観を共有することである、ということです。
自由の追求―不自由の自覚と公共性への意識―
では、インテリ・知識人たちの問題意識と何か。敢えて一言で言えば、自由でありたい、ということです。みなさんだって不自由ではありたくないでしょう。そういう意味では、みなさんは既にインテリ・知識人たちと問題意識を共有できているとも言えます。
ただ、インテリたちは「自由であるためには、自分がいかに不自由であるかを自覚しなければならない」と考えています。生まれたときから牢屋に閉じ込められており、牢屋の中に食べ物や着るもの、1人で遊ぶためのオモチャか何かを十分に与えられている人、というのを想像してみてください。その人はお腹がすけば好きなときに好きなだけ、好きなものを食べられるとします。欲しいと思うオモチャがあれば誰かがどこかからいくらでも運んできてくれるとします。さて、この人は自由だと言えますか? …言えませんよね。この人は牢屋の中の生活に満足しているかもしれないが、牢屋の外にもっと広い世界があることを知らない。知らないまま囚人である自分に満足している。
インテリ・知識人というのは、私たちの生活をこの贅沢な牢屋に閉じ込められた囚人のようなものだと考えています。自分たちが実は不自由を強いられているのではないか。不自由であることを自覚して、贅沢な牢屋の外の世界の存在に気づかなくてはいけないのではないか。自分が実は不自由であることに気づくことで自由への可能性が開かれる。これがインテリ・知識人たちの大きな問題意識のひとつです。
私たちに不自由を強いるものとは、例えば社会です。社会を維持するためには、多かれ少なかれ個人を束縛しなければならない。では、私たちの今の社会は何のために、どのように、私たちを束縛しているのか、不必要な、不当な束縛をしてはいないか。他所の国、他所の文化には私たちの社会とは別な形の社会があり得るのではないか、あるいは遠い過去に、もっと望ましい社会が存在したことがあったのではないか。そのように今の社会のあり方を相対化することで、私たちがより自由であり得る社会の形を考えるのです。
私たちが不自由であるのは、社会のせいばかりでもありません。インテリや知識人は自由な社会のあり方を考えますが、「考える」という行為自体、言語という道具の束縛を受けます。例えば「セクハラ」という言葉が存在しなければ、その概念について考えたり議論したりすることができません(実際、この言葉が作られる前にはこれが問題であるという認識自体が社会の中で共有されていませんでした)。そもそも、人間が何かを考えたり、感じたり、認識したりする枠組みそれ自体がある種の限界を孕んでいます。犬や猫は色を識別できませんが、私たちの五感もコウモリが発する超音波を感知できない。私たちが現実を認識し、快や不快を感じる仕組みそのものが、私たちの思考や行動を束縛しています。このような問題意識から人間の言語(もしくは言語と思考の関係性)や芸術についての議論が生まれます。
不自由を自覚して、「私たちはこんなにも不自由なのだ」ということを訴えるのが評論文のひとつの役割ですが、自分が不自由であることだけを主張しているのでは子どもの不平不満と変わりません。特に、社会によって作られる不自由について議論するとなると、自分と利害が対立する相手の立場についても考える必要が出てきます。
自分が自由であるためには、他者と互いに自由を尊重しなければならない。自分とは異なる立場、異なる利害、異なる価値観を持った他者との対話が可能であるという環境を作ることが、自分の自由を、少なくとも自分の自由を求めて何ごとかを主張する権利を守ることなのです。異なる立場の他者同士が対等の立場で関わることを可能にするのが「公共性」という概念です。インテリ・知識人たちは公共性への意識を重んじます。社会の中の少数派が、公共の空間で多数派と対等に扱われ、対話が行われることを求めます。こうして、異文化を理解すること(異文化同士が理解し合うこと)や、弱者(例えば女性や障害者など)の権利を擁護することなどが、現代文のテーマとして扱われるようになるのです。
書かなければ読みの精度は上がらない
インテリ・知識人たちの問題意識や価値観を理解すれば、入試現代文で扱われる文章を読むことはできるようになります。とは言え、試験で点を取るためにはそれなりに精度の高い読解が求められる。精度の高い読解とは、一つひとつの段落、一つひとつの文、一つひとつの単語に込められた書き手の意図を正しく理解して、他の言葉で説明できるということです。この読解の精度を高めるには記述の問題を解くしかありません。
自分で答えを作り、模範解答(過去問題集等にはちっとも模範的でない模範解答も少なくないのですが…)を参照して読み間違えていたところや見落としていたポイントがないか確認する。そしてもう一度本文を読みなおして、改めて解答を作りなおす。この作業を繰り返すことで、一つひとつの文章を消化し吸収していく。読解の精度はこのようにして高めていくしかありません。
大事なことは、記述の解答を作るとき、例えば文字数など最初は気にしなくて良いので、まず何よりも「自分が何を書いているかわかるように書く」ということです。これはひとつには何を書いているか自分でもわからないような解答はまず間違いなくゼロ点にしかならないということと、自分が何を書いているのかわからなければ、模範解答と自分の解答を照らし合わせて自分の解答をどう修正すべきなのか自分で考えることができないからです。短くても長くなりすぎてしまっても構いません。まずは、自分がどのようなポイントを大事だと考えたのか、それを自分自身が理解できるような解答を作るようにしてください。
自分が理解したことを、自分が理解できる言葉で説明できるようになること。それが、言葉の力を高めていくための最初の、そして恐らくは最も高いハードルなのだと思います。
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