国語教師の役割について
我々は言葉を学ぶことで、世界を記述しそこに生起する出来事に意味と価値を付与し、他者と共同してコミュニティーを立ち上げることが可能になる。言い換えるならば、言葉の力とは個人がコミュニティーを形成するための資質の総体を指す。「国語力」とは、個人が国民国家日本というコミュニティーのフルメンバーとして参与することができるだけの言葉の力を意味している。
言葉の力について議論するときに、抽象的な「読解力」や「文章力」という概念を想定することは、私にはあまり意味の無いことのように思われる。言葉はあるコミュニティーのなかで共有されることで意味を持つのであり、「読解力」も「文章力」もそのコミュニティーのなかで流通する言葉をどう扱うかという問題であり、コミュニティーの文脈と切り離すことが可能な普遍的な読み書きの力というものが存在しているのかどうか甚だ疑わしい。同じ日本語を話す日本人でも、生育環境も居住地も現在の職業も社会的地位も何もかもが違っている相手と言葉によるコミュニケーションを成立させることは難しい。それが可能であるとすれば、その両者の間で「自分たちは(言葉による)対話や議論を通して一定の合意を形成しなければならない」という共通認識が生まれたときであろうが、その場合、その議論に参加する者はすでにひとつのコミュニティーを形成したのであり、異なるコミュニティーに所属する他者同士が、特段の必要性も無く言葉によって何ごとかを理解し合うという状況を、少なくとも私はこの目で見たことはない。
言葉が通じるのは、基本的には自分が所属するコミュニティーの内部だけである。というより、言葉というのは本来的には自分が所属する共同体内部のコミュニケーションを円滑に進めるための補助的ツールだったのではないかと私は考えている。ただ、コミュニケーションにおいて補助的な役割を担っていた言語は、それが音声や文字という形で外化されることで、所属するコミュニティーの外部にも(部分的に)共有可能な形に発達していった。いわゆる「共通語」である。「共通語」は母語とは違う発達をするものだから、系統的な学習によって身につけなければならない。一定水準の教育を受けることで「共通語」は習得され、「共通語」を習得した個人は、自分がどのようなコミュニティーに参加するかについての選択肢が格段に広がる。「ヤバい」とか「かわいい」のような言葉だけで会話が成立するコミュニティーは居心地が良いだろうとは思うが、「共通語」を学ばない限りそれ以外のコミュニティーに所属することは不可能なのだ。
言葉の力を個人がコミュニティーを形成するための資質の総体であると考える立場からは、いわゆる「教養」も、言葉の力という概念のなかに含まれる要素となる。モーツァルトのオペラを鑑賞できることは言葉の力の一部である。モーツァルトを好きか嫌いかは完全なる個人の趣味の問題だが、モーツァルトのオペラをどのように評価するかは(「評価」とは言語的な行為である)、その評価者があるコミュニティーのメンバーとして相応しいと認められるか否かを左右する。つまり、あるものを(個人的な好き嫌いとは別に)高く評価するか低く評価するか、そしてその評価が所属するコミュニティーの価値観と、共有されるべきとみなされる知識に裏打ちされている場合、その人物は所属するコミュニティーのなかで「教養ある人」とみなされるのである。
要するに、「教養」とはあるコミュニティーの中で共有されている知識・価値観の総体のことであり、自分が所属すべきコミュニティーにおいて「教養」とみなされる知識・価値観を身につけることは、そのコミュニティーのメンバーとして認められるために必要な条件であると言えるだろう。
このように考えると、国語教育と道徳教育は切り離せないということが明らかになる。道徳とは、それぞれに形成されるコミュニティーのなかで生まれた価値観が、(それほど体系的ではないにせよ)言語化され、固定的な規範となったもののことである。法律のように、人間社会の外部からやってきた規範とは違う。国語教育が、子どもたちが将来社会的なコミュニティーに参与するために必要な資質を養うためのものであるとするならば、彼らが所属しようとしているコミュニティー(受験指導の文脈では大学というコミュニティーということになるし、就職する生徒を指導する文脈では民間企業というコミュニティーのことを意味するだろう)の価値観を内面化させることを、国語教育は目指さなければならない。
女性の社会進出に否定的な意見を持つ生徒に対しては、少なくとも大学というコミュニティーではそのような意見が支持されることの少ないということを教えなければ、現代文の解釈を間違えたり、小論文で不適切な答案を書いてしまったりするだろう(ちなみに、これはあくまでも大学に行きたい生徒に対する指導の話であり、古風な価値観をもった民間企業に就職しようとする生徒には違うことを教えるべきである可能性はある。あくまでも自分が所属しようとするコミュニティーの価値観を理解しているか否かが問題なのであって、ある価値観に基づく主張が「正しい」かそうでないかという話をしているのではない)。
大学というコミュニティー、というよりも、インテリ・知識人たちの間で共有されている価値観を内面化しなければ、現代文の入試問題で使われる文章は読めないし、小論文にしても、インテリ・知識人の価値観をまるで知らないのにゼロベースで自分の意見を述べるなど大抵の場合不可能である。そして、「インテリ・知識人たちの間で共有されている価値観」とは、一人ひとりの違いを認め合おうとか、文化の多様性を守ろうというような価値観であり、これを内面化させる教育は道徳教育的な側面を持たざるを得ない。
それらの価値観を客観的な「知識」としてのみ教授し、生徒個人の中に内面化させることまでは求めない、というスタンスもあり得る。しかし、現実的には個人の中に内面化されていない他人の意見とは「知識」というよりは「情報」である。それは、本質的には意味も分からずに暗記した歴史年号のようなものであって、知識に昇華されていない、単なる情報をインプットして、読み書きの活動のなかで適切に応用し、アウトプットするなどという高度な情報処理能力を持った中高生などほとんどいないのだ。
結果的に、国語教育は道徳教育的な側面を持つものにならざるを得ない。ひとつ言い訳をするなら、国語に限らず、あらゆる教育は道徳教育である。とりわけ、いわゆる教養教育は、つまるところ道徳教育である。というのも、ちょうど人間のコミュニティーから切り離すことのできる「読解力」とか「文章力」というものが存在しないように、具体的な人間のコミュニティーから切り離して論じることのできるような、抽象的・普遍的な道徳というものも存在しないからである。教養を身につけることで道徳的な人間になると言いたいのではない。自分が所属するコミュニティーにおける教養を身につけた人間のことを、我々は道徳的な人間と呼ぶのである。
言葉の力とはコミュニティーに参与する資格であり、そのコミュニティーの中で適切に行為するための技術である。それを教える我々国語教師の専門性というものがあるとすれば、人間のコミュニティーの構造に関する知識と、生徒を送り込もうとしているコミュニティーのなかで共有されている価値観についての知識なのではないかと私は考えている。
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