論理の罠

「論理的思考力」なる言葉は、近年流行のフレーズではありますが、それがつまるところ何であるかについての理解が共有されているとは言い難いように思われます。
厳密に考えるなら、論理的思考を身につけるには、いわゆる「論理学」を学ぶ必要があるのだと思いますし、論理学のベースにはそれなりに高度な数学的思考が求められるはずであり、そもそも全ての人がそれを身につけるというのはどうにも現実的なこととは考えられません。私にしても、自分がどこまで論理的な思考が出来ているものか、あまり自信は無いというのが正直なところです。
私自身が「論理」というものを意識するようになったのは、多分小学校時代の終わりか、中学に入るあたりの時期、すなわち不登校の日々が始まろうとしていた頃のことだと思います。正直この時期のことはもう記憶が曖昧で、自分を不登校に追い込んだ当時の担任の顔すら今ではあまり思い出せないのですが、自分は世間に否定され続けており、世間に対して自分の正しさを訴える為には論理が必要だ、というような確信を持つようになったのを覚えています。不登校時代にはひたすら星新一の文庫を読み漁っていたのですが、思い返してみるとそれは星のアイロニカルな論理性をなんとかして自分のものにしたいという欲求に適ったものだったのかもしれません。
では、その論理によって私は自分の正しさを人に認めさせることができたか。
結論から言えばそれは出来ませんでした。第一、多くの人は論理的な主張が論理的であるということを理解出来ません。別にそういう人を馬鹿にしているわけではなく(馬鹿にしたくなる気持ちがあることは否定できないのですが)、多くの人は日常生活の中で、論理的な正しさに立脚した議論というものを必要としておらず、従ってそのために必要な能力を発達させる必要にも迫られないのです。
また、論理によって相手を黙らせることができたとしても(俗に言う「論破」ですね)、相手がこちらの意見を受け入れてくれなければ(「反論出来なくなる」ことと「受け入れる」ことは全く別)相手を自分の側に引き入れることはできません。「言っていることは正しいがお前に賛同したくはない」と言う権利は誰にでもあって、相手にそのカードを切らせてしまった時点で、正しく論理的な意見には何の価値も無くなったのだと言って良い。
論理というのは、少なくとも意見の違う相手を説得するときに補助的な役割を果たすことはあっても、メインではないのだと思います。人を説得し、自分の側に引き入れるときに求められるのはロジックではなくレトリックです。ソクラテスには怒られそうですが、今の私は「いつでも、どこでも、誰にとっても正しい」言葉というものにほとんど価値を見いだすことができない。もし仮に、そのような普遍的正しさを論理によって導き出すことが可能なのだとして、その正しさが私にとって不都合なものだったとすれば、私にはその正しさを拒否する権利があるはずだからです。

トロッコ問題というのがあります。暴走するトロッコが向かう線路の先に、5人の男が作業をしていて、トロッコがそのまま進めば5人は死ぬが、分岐点を切り替えるレバーを動かせばトロッコの進路が変わり、5人は助かるが変更された路線上にも1人の男が作業をしていてその人は死ぬ、という思考実験です。この場合、レバーを動かすのと動かさないのと、どちらが道徳的に正しいかということが議論されるわけですが、正直なところ私は、この議論に真面目に参加する気が起こりません。単純に数だけで考えるなら、5人を救う為に1人を殺すべき、としか結論出来ないでしょう。その結論が「道徳的」と言えるのかどうかは別として、5人死ぬのと1人死ぬのとを比べれば後者の方が幾分マシであるという以外の結論があり得るとは考えられない。
この議論は線路上で作業をしている人間の具体的な特徴や属性、あるいは分岐点を切り替える人物との関係性などを完全に排除したところで行われます。もし私が分岐点を切り替えるレバーを握っていたとして、切り替えた先にいる1人が私の家族とか友人であれば、5人を犠牲にしてでもその1人を助けたいと思います。それが道徳的な判断であると言えるのかはわかりませんが、そう判断する私が道徳的ではないと断罪されたとしても(この思考実験では通常、どのような判断を下したとしても法的責任は問われないことになっているので、私の判断が非難されるとしても、それは道徳的観点からのものだけになるはずです)、私にとって大切な人間の命と、見ず知らずの人たちから不道徳な人間と見なされるリスクなど比べられるはずがない。
トロッコ問題に典型的な「思考実験」は、「いつでも、どこでも、誰にとっても正しい判断とは何か」ということを議論する目的で行われるものですが、そもそもそのような判断基準があり得るのか、それが存在するのだとして、私がその正しさを、私自身の利益よりも優先しなければならない理由があるのか。

論理とは「私」の外部にあるものです。近代の合理主義は、主体であるところの「私」と客体としての観察対象を分離するところから始まりました。客体を観察し、あらゆる自然現象に共通してあてはめることの出来る法則を発見すること、これが自然科学の基本的な姿勢です。合理的な思考よって導き出される法則は、「私」とは切り離されたところに成立します。「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しくあるべき法則が、「私」の主観性と結びついていては意味をなしません。もし、道徳的な判断基準が論理によって導き出され、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しく普遍的な道徳法則が発見されてしまったならば、それは取りも直さず「私」が固有の思考で物事の正邪曲直を判断する必要がなくなる、ということです。逆説的なことですが、論理的正しさを追求することは思考や思索を深めることではなく、むしろその人に固有の思考の自由を放棄することに他ならないのです。
「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しく普遍的な道徳法則が実際に存在するのか、ということはここでは問題にはなりません。存在し得るとして、それだけを基準にして物事を考えようとするのはあまり知的な振る舞いとは言えない、という話をしています。もちろん、誰もが守るべきルールというのは設定するべきでしょう。たとえば私は体罰に反対します。それは、学校教育法でそのように規定されており、その規定は日本国憲法や教育基本法の理念とも一致しており、教育学的にも体罰の悪影響が指摘されているからです。また、私は「いじめは被害者の側にも責任がある」という言説に与しません。今日の教育界の論理においてその言説は認められないからです。いま挙げたような問題について、私は実際には自分の頭を一切働かせずに自分の立場を明瞭に示すことができます。それは教員として当然の主張ではありますが、今言ったようなことはどれも、私自身の体験や思考から生まれた言葉ではない。それはどこまでも私でない誰かがロジックを積み重ねて導き出してきた結論であり、私はそれを繰り返しているだけです。
体罰の禁止やいじめの被害者の責任を問わない、というルールは、教員であれば誰もが受け入れるべき原則です。しかし、現実の教育現場で直面する問題は、原則論だけで対処出来るものばかりではない。具体的な人間関係(教員と生徒、教員と保護者、教員と教員の関係)のなかで、発生した具体的な問題を、そのつど具体的にどう解決していくかを考える。このときに初めて「私」固有の思考は駆動されるのであって、「私」の外部にある論理というのはせいぜい参考にしかなりません。いえ、論理によって、いついかなる状況にも適用可能な論理的判断なるものによって現実のあらゆる問題を解決しようとすれば、必ず綻びが生まれます。すべての状況に適用可能な論理は、すべての状況に適用可能であるが故に、どういう状況にも適応しないのです。

普遍的な真理を追求することを悪いとは言いません。それはそれで必要なことです。けれども、私たちの現実に現れる具体的な問題を解決するのは普遍的なロジックではなく、その時々の状況のなかで作られている人間関係をどう動かしていくかという「政治」なのです。

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