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明治天皇の神風串呂2(明治天皇御陵と松良天皇御陵)
💟このオンラインブックは、串呂哲学の創始者・三浦芳聖師が解明した「明治天皇の神風串呂」を分かりやすく解説したものです。「明治天皇の神風串呂1(明治天皇・光良親王王孫説)」の続きです!
![](https://assets.st-note.com/img/1683172142548-2AvVE7QlW3.jpg)
前回に引き続き、「明治天皇-南朝皇胤説」を明確に昭示する神風串呂をご紹介しています。
明治新政府は、維新が南朝革命である事を公表せず、情報を独占して国民を騙して来た北朝官僚システムと妥協して、維新で活躍した「英霊たち」を裏切ったため国家を破滅させました。
今号は三浦皇統家系図にある直系の人物3人(宗良親王、松良天皇、睦仁親王)の御陵、神社が一直方向線上に串線する神秘的な実証の神風串呂をご紹介します。
後醍醐天皇
-尊良天皇-興国天皇-小室門院¬
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-光良親王-----睦仁親王
![](https://assets.st-note.com/img/1683168338099-iPEV2kw19A.png?width=800)
1、明治天皇御陵
前回ご紹介した神風串呂で、明治天皇の伏見桃山御陵は現在地に作られたことが偶然ではなく、串呂主宰神の串呂構築計画(青写真)に基づいて作られたことがご理解できたのではないかと思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1663121027317-dJyI1eIv7f.jpg?width=800)
こうしたことから、串呂主宰神(皇祖神)が、串呂を通して日本国民にメッセージを送っておられることを垣間見ることが出来ます。
神風串呂は戦争の勝者や権力者によって隠蔽された「歴史偽造」を正す、神様が書いた奇跡の皇統史であると言えます。
今号も「明治天皇-南朝皇胤説」を明確に昭示する神風串呂をご紹介します。
2、串呂哲学の理解を助ける予備知識
始めての方は、下記の記事を参照してください。
3、明治天皇御陵と松良天皇御陵との神風串呂
三浦芳聖は、京都市伏見区桃山の「明治天皇御陵」と愛知県豊川市御油町の「松良天皇御陵」を串呂すると下記のようになると述べています。
![](https://assets.st-note.com/img/1663120860892-SCCD75X11c.jpg?width=800)
明治天皇御陵(京都市)-松良天皇御陵(豊川市)-⛩井伊谷宮(浜松市)
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文、新住所に改めた)
地文のみ掲載します。
「明治天皇御陵」-「松良天皇御陵」-「⛩井伊谷宮」
【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)明治天皇御陵(京都市伏見区桃山町古城山)
![桃山御陵 (2)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52327573/picture_pc_3f896de559c2099c46d3f3f24363b7e9.jpg)
京都市伏見区の桃山陵墓地にある明治天皇の陵。桃山御陵(ももやまごりょう)
(『ウィキペディア』伏見桃山陵)
![桃山御陵](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52327638/picture_pc_0034081367e412afc120258aaf8d0751.png)
三浦芳聖は、ここで睦仁親王(明治天皇)の軍服姿(上半身・無帽)の神霊写真の撮影に成功している。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文40の2頁・写真版)
睦仁親王(明治天皇)が、軍服を愛用した話は有名であるが、大元帥であったから軍服を愛用したというより、征東将軍宗良親王の再現ゆえ(無意識で)軍服を愛用したといった方が正解だと思う。
征東将軍宗良親王と睦仁親王(明治天皇)の共通点としては、歌聖であったことも見逃すことはできない。宗良親王は、准勅撰『新葉和歌集』の撰者であり、睦仁親王(明治天皇)は、約93,000首の和歌を作ったことで有名。
編集者も少年時代に『明治大帝御聖訓』(山口鋭之助監修、愛之事業社発刊、1936年)という「御製集」を読んだ記憶がある。
(2)松良天皇御陵・三浦家墓地(愛知県豊川市御油町筑前ケ谷)
![三浦家墓地](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52327854/picture_pc_8d8ced684923fad3a01f06eeee84cda0.png?width=800)
豊川市御油町筑前ケ谷、松良天皇御陵・三浦家墓地(八幡大明神)
元来は、松良天皇御陵「御坊塚・おんぼうづか」で、現在は、三浦家墓地(八幡大明神)。
【参照】松良天皇(正良) (№79)
【参照】松良天皇御陵(豊川市御油町筑前ケ谷)
【参照】⛩多賀大社と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂 (№29)
⛩多賀大社-松永-天皇-松良天皇御陵-三浦芳聖晩年の住所
中西久次郎著『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』によれば、後醍醐天皇に仕えた千種忠顕の一子・青木盛勝の子「青木平馬」が残した記録(青木文献)に、
寛成親王の皇子松良親王は三州五井美吉原に落ち給う。薬師寺建立の開基成り。成龍と号し給う。成龍は応永二十四年五月、御坊に崩ず。(原文漢字)松良親王五井御坊塚ニ納ム
とあり、松良上皇は、成龍法皇と名乗るお坊さんだったので、そのお墓は「御坊塚」(おんぼうづか)と呼ばれました。
建立以来、青木盛勝に仕えた細井信濃守のご子孫がお守りしてきたが、現在は三浦家が管理しているという。
三浦芳聖も幼年時、父親に連れられて松良天皇御陵に参拝した事があると述べている。
この御陵を守護するかのように見事な榎の大樹が茂っている。大宝天皇が植樹されたものであれば、樹齢は600年以上ということになる。
![](https://assets.st-note.com/img/1646606456967-pJc6lSirby.jpg?width=800)
松良天皇は、応永24年 (1417年)5月24日崩御。
現在は三浦家の墓地となっていて、三浦芳聖もこの地に眠っている。
地図で「⛩八幡大明神」となっているのは、三浦芳聖の帰幽(1971年3月30日)後に、お社を建立し、三浦芳聖を八幡大明神として祭ったからである。
この松良天皇御陵のすぐ東北部は、旧東海道が通っていて、御油の松並木(天然記念物)で有名なところである。
(3)⛩井伊谷宮(いいのやぐう、静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)
![井伊谷宮](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52328432/picture_pc_7de5b44ab34c60baa798ac295fdee8ae.jpg)
井伊谷宮(いいのやぐう)は、静岡県浜松市北区の井伊谷にある宗良親王を祀る神社。旧社格は官幣中社。建武中興十五社の一社である。明治維新以降、建武中興に功績のあった南朝方の人物を祀る神社が数多く創設されたが、そのうちの一つである。
後醍醐天皇の第四皇子で南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王を祀る。社殿の背後に親王の墳墓がある。神紋の李花紋は、歌人としても有名であった宗良親王の家集『李花集』に因むものである。
![井伊谷宮年表](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52328880/picture_pc_b5968c6785d4df6d61d54cb63f6e958e.png?width=800)
睦仁親王(明治天皇)は「征東将軍宗良親王の井伊谷宮(いいのやぐう)を、明治2年に本宮造営、明治5年に御鎮座、明治6年に官幣中社に列し」(『井伊谷宮略記』)と、超スピードで奉賽し顕彰している。下記の系図を伝承していた証拠である。
![](https://assets.st-note.com/img/1646606739737-Hlmhyddoup.jpg?width=800)
【三浦皇統家 系図】
後醍醐天皇
-尊良天皇-興国天皇-小室門院¬
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-大宝天皇-----三浦芳聖
-義良親王――――――寛成親王-綾子皇后-大宝天皇
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-光良親王----睦仁親王
![井伊谷宮](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52329507/picture_pc_2f9258de94b982e9d7ce8f2d538f29f3.png?width=800)
宗良親王(むねよししんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。南朝の征夷大将軍もしくは征東将軍。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。
信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。二条派の代表的歌人で、南朝歌壇の中心であり、准勅撰和歌集『新葉和歌集』の撰者となった他、私歌集に『李花集』がある。 (『ウィキペディア』宗良親王)
4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察
「明治天皇御陵」-「松良天皇御陵」-「⛩井伊谷宮」
三浦皇統家系図にある直系の人物3人(宗良親王、松良天皇、睦仁親王)の御陵、神社が一直方向線上に串線する神秘的な実証の神風串呂です。
後醍醐天皇
-尊良天皇-興国天皇-小室門院¬
-宗良親王――――――小松天皇-松良天皇-光良親王-----睦仁親王
三浦芳聖が昭和42年(1967)5月30日、皇祖大神から受けた霊示(要約)
睦仁親王(明治天皇)は、松良天皇の第四皇子「光良親王」の王孫である。応永17年(1410年)光良親王を三州萩から長州へ大江氏が移し、その地を「萩」と名付け、大江氏のちの毛利氏が代々守護し来たり、その王孫を明治維新の時に孝明天皇の猶子(ゆうし)として擁立し王政復古せるものにして、霊統は後醍醐天皇第五皇子・征東将軍宗良親王の再現である。
前号でご紹介した下記の神風串呂と併せて考察しますと串呂の偉大さがよく理解できると思います。
(1)松永-天皇-松良天皇御陵-三浦芳聖晩年の住所(№29)
(2)光長-明治天皇御陵-御在所山-松永-四之宮(№212)
(3)明治天皇御陵-松良天皇御陵-⛩井伊谷宮(№213)
松永(木曽岬町)を頂点とし、左下(南西)に明治天皇御陵、右下(南東)に松良天皇御陵が配置された三角形が出来ていることがお判りでしょうか。神風串呂は精密な幾何学の様に構成されています。
この三本の神風串呂から、明治天皇を擁立した明治維新王政復古が日本神界の神計画から実現したものである事が窺われます。その目的は往昔「大宝天皇」の誓願に基づく神皇正統家を世に出す為であったと確信しています。
💟皆様方の御支援に感謝しています!
🔴神風串呂を学びましょう!
💟串呂文庫
🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
🟡バックナンバー(総合)
🟠情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
🟡前号(明治天皇の神風串呂1)
🟢次号(明治天皇の神風串呂3)
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串呂哲学研究会 鈴木超世志
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