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藤井 聡 教授の「日本敗戦論」を検証する


■はじめに

今年も「終戦の日」を迎えるにあたり、各メディアでは毎年恒例の戦争振り返りの特集が掲載されたり放送されたりした。すでに私たちは、戦後生まれが8割という世の中を生きている。戦争経験者が減るなか、実体験にもとづいた惨禍の語り部が毎年のように貴重なものになっている。

私たち戦後世代は、こうした体験談を傾聴し、自分事として語り継ぐ責務があるはずなのだが、こうした状況につけ入るように、戦争を知らない世代が、知らないが故の強硬論を展開し始めていることも事実であろう。例えば、自民党タカ派が中心になって集団的自衛権の行使容認や防衛費増額などを強引に推し進めてきたが、岸田首相は結局、この路線を踏襲する格好で「日米同盟」のつなぎとめに必死になっている。

最近では日英伊で次期戦闘機の共同開発を本格化させる動きを見せ始めているが、第三国への輸出によって戦争に使われた場合、殺傷への間接的関与が日本の憲法上許されることなのか、あからさまな軍需産業への傾斜とも受け取られかねないこの動きに、さらに一歩踏み込んだ議論が巻き起こっている。これに加えて、台湾有事に関する麻生太郎元首相の失言問題も物議を醸している。

確かに、今の日本にとって、台湾や北朝鮮を中心とした地政学的リスクが高まるなか、米国の国力低下に伴ない、在日米軍の軍事的なプレゼンスも低下してきているので、「日米同盟」への政治的配慮は国益上欠かせないにせよ、安全保障環境への自律的関与をせざるを得ない状況になりつつあることは確かだろう。

果たして、護憲論者が主張するように「憲法9条」堅持、専守防衛を貫き通すのがよいのか、改憲論者が主張するように、専守防衛との矛盾や先制攻撃のリスクを抱えつつ、敵基地攻撃能力のあり方を模索するのがよいのか、私たちは選択の岐路に立たされている。

今回は、こうした問題を考えるにあたって、TOKYO MX 『東京ホンマもん教室』が8月12日に放送した「なぜ日本は戦争に敗れたのか」という番組を取り上げたい。

■藤井 聡 教授の単純・素朴な保守回帰を斬る

実はこの番組、とある友人から教えてもらって、放送当日のYouTubeにアップされていると言うので視聴してみたのだが、率直なところ、それなりに歴史や思想、社会・文化論の常識を知っている者にとってみれば、歴史の実相や複雑さ、史実、テキストから読み取れる文脈などに照らして、あらゆる面から違和感を覚える代物だった。

タイトルの議論はYouTube動画では(実際の放送でも?)前半部分だけだが、ここで議論を展開している藤井 聡という論客は、京都大学大学院教授だか知らないが、積極財政のMMT論者でもあり、保守思想家の故・西部邁氏とも時々対談していたことから、時々メディアでの発言はチェックしていた。

その特徴を一言でいえば、所謂ネット右翼などといった似非右翼界隈の俗耳に入りやすい議論を展開するような、通俗に堕する傾きの強い保守論客であると考えている。

この番組でもその特徴を遺憾なく発揮している。

議論早々から突っ込みどころ満載だ。

11:56辺りは、軍国主義を排斥するために公職追放をした人物の一部の復職を許し、村落共同体的なコミュニティー(地縁や血縁、地域共同体、檀家制度、家父長制的な家族制度、終身雇用・年功序列など)や軍隊的な教育の一部が残ったりしたわけだから、それはちょっと言い過ぎである。敗戦で戦前・戦中と戦後が完全に切断されたわけではない。ルース・ベネディクトの『菊と刀』や土居健郎の『「甘え」の構造』などの日本人論も参照されたい。

12:49辺りもおかしい。山本 五十六が日米戦争になったときの海軍の見通しについて、「2年3年となれば、全く確信は持てぬ」と近衛文麿首相に語り、日米戦争の回避を求めたのはよく知られた話であるし、作家で政治家の猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』によれば、1941(昭和16)年夏、政府は内閣総力戦研究所を本格始動した際、招集された官僚や軍人、民間人などのエリートたちも戦争反対をしたが、その忠告を東條英機陸相が拒んだ。

戸部 良一その他の名著『失敗の本質』を読めば、当時の日本軍が戦略や戦術を欠いており、「空気」に流されやすかったことが分かるし、この辺りに「敗戦の原因」を求めることもできるだろう。

そもそも、のっけから伝統・倫理観の断絶を問題視しているのが誤解を招きやすい。引き継いではならない歴史まで美化してしまうことになりかねないからである。

日本は幕末以降、欧米列強の植民地支配の脅威に抗い帝国主義化したが、第一次世界大戦後の国際協調路線から如何にして無謀な戦いをするに至ったのか。戦略・戦術の欠如、その帰結としての大東亜共栄圏といった巨大な妄想、それを実現せんとする国策としての国民統制。ここに戦後も引き継ぐべき伝統や倫理観など皆無だろう。

概観してみよう。

1930年代以降、陸軍を中心とした軍部が右傾化して独走。ファシズム化した独・伊と同盟関係を築くと同時に国家統制し、その道具として国家神道や国体思想を利用して国民を抑圧した。言論の自由を封殺し、教育では「修身」の授業で、「教育勅語」による神の国教育などを強制。当時の明治憲法は天皇主権で国民は臣民だった。美濃部 達吉の「天皇機関説」が抑え込まれ、天皇を頂点とした家父長制や儒教の影響を色濃く反映した教育だった。

大本営は一見、「お国のために」と倫理観らしいことを言ってはいたが、その後続くのがあの破滅的な「一億総玉砕」である。『失敗の本質』を読めば分かるが、科学的・客観的なデータよりも「空気」で意思決定をし続けたので、戦況の悪化とともに物資も人員も欠乏して追い詰められていった。若者はおろか幼い子供までが駆り出され、本土決戦へ向けた総力戦へと強制召集された。国民は、殺さなければ殺されるという危機的状況のなか、団結せざるを得なかった。

その一方で、大本営などの一部上層部は前線から遠いところへ逃れ、負け戦に巻き込まれた末端の兵士や無辜の民は、捨て駒にされていった。

藤井教授は、こうした歴史も含んでの伝統や倫理観の断絶を憂慮されているのなら、そんな無茶苦茶な時代に戻りたいのですか?と問いたい。時代錯誤にしても無理がある。今から帝国主義時代に戻ることはない。全体主義になることもない。当時と比べて国際社会は複雑化している。少なくとも日本も含めた主要な民主主義国家はインターネットが普及しているし、言論の自由が抑圧されている中国・ロシア・北朝鮮などと違って統制が効かない。と言うか、効かせてはいけない、という国民的な合意がある。政治的・地政学的にも当時とは状況が異なるし、経済的にもサプライチェーンで相互依存せざるを得ないのが現代だ。藤井教授の議論はこうした現実から目を逸らせ、似非右翼の「言論ファッション」に訴求しやすい危険性がある。

先ほど述べたように、確かに、幕末〜明治・大正・昭和の帝国主義時代、植民地にされないよう対抗せざるを得なかったことは事実だろう。しかし、そんなことは、わざわざ「(七転八倒して抗わなければ)植民地にされていたことは明らかです」などと宣言しなくても、当たり前のことである。明治維新やその後の富国強兵、殖産興業が何のために為されたのかを想像するだけで、多分、これらを初めて習う中学生でも自明だろう。ご本人は教科書を否定しているが、これにしても、しっかり読めば、少なくとも文脈上、「明らか」である。

例えば、今、私の手元には、高校生の歴史教科書の定番テキストでもある山川出版社の『詳説 日本史(1997年3月5日 発行)』がある。やや古いテキストだが、「第4部  近代・現代」の冒頭(225頁)に、これから展開される記述を概観する文章が掲載されている。それを読むと、帝国主義化した欧米列強が東アジア地域にも進出し、植民地支配の脅威と、それに抗わざるを得なかった日本の様子が分かる。しっかりと行間を読み取れるだけの日本語能力を有していれば、理解できるようになっている。

話しぶりから自覚されている節はあるが、ご自身の発信力や影響力を省みて、教科書から説き起こす、というところから始めてみられては如何だろうか。

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