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ユダヤ的狂信を抑える可能性はBRICSに

【上の写真はイスラエルでは労働党寄りの論調とされる代表的日刊紙「ハ・アレツ」に載った「イスラエルは苛酷な代償を支払うことなしには200万のガザ住民を牢獄に入れることはできない」というタイトルの論説で、「これらすべての背後にイスラエルの傲慢がある。我々は何でもやりたいことを出来、その代価を支払うことも罰せられることもない、という・・」とあります】

§ ユダヤ人は、イスラムは狂信的だと思っているひとが多いようですが、私の見るところでは、じつは、ユダヤ人こそ狂信的です。お断りしておくと、上に掲げたハアレツの論説を書いたようなひとたちはそうではありません。

 1995年、イスラエルとパレスチナの平和共存を求めて、PLOのヤセル・アラファト議長との間にオスロ合意を取り付けた労働党政権のイツハク・ラビン首相がその直後に、イガール・アミルによってテル・アビブで暗殺されたのなどは、それを何よりよく示す例です。ラビン首相死去の報に接するとアミルはただ「満足だ」と言ったそうで、公判では、ラビン殺害の理由を「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と述べています。

 神の律法とは何か? そもそも、唯一神の概念にもとづくなら、神は全ての者のために存在すべきであるのに(そういうことが可能であるとすればですが)、ヘブライ人だけを大事にするということがありうるのか・・・基本的には、ヤーヴェはあくまでヘブライ人のための民族的な神でしかありません。ただ、そんなにヘブライ人が大事なら、ディアスポラや、欧州でのポグロムなどが起こるのは、いくらなんでも変ですが。
 そういう不合理なものを、あくまで信じるというのは、よほどガンコで、物の見方が歪んでいるのでしょう。歴史上幾多の苦難を経験してきた民族ですから、普通ではなくても仕方がないでしょうが。

 かれらの頑迷な信念とは次のようなものです。

§ イスラエルのユダヤ人の多くは、自分たちはヤーヴェ(=エホバ)に保証された居住権をもっているのだと信じています。
 パレスチナは本来、神から与えられた自分たちの土地である、そこにアラブ系が住んでいることが怪しからん、というワケです。
 
 彼らのその信念の根拠となっているのが聖書です。
 たしかにヤーヴェはヘブライ人に「カナンの地」(今のパレスチナ)を約束の土地として与えると言っています。ディアスポラによって四散させられた民族はそんな神話を信ずる必要があったのでしょう。

§ その神話が聖書のなかで一番始めに表現されているのが、創世記9章のノアの3人の息子のくだりで、非常に特異なものなので、ご紹介します

 大洪水のあと、ノアには三人の息子があった、と書かれていて、「セム、ハム、ヤペテである。ハムはカナンの父である」とあります。
 なぜか、ハムとだけ書くのでなく、カナンの父と書く。それまで創世記の8章までには、カナンという言葉すら見当たりません。
 早くもカナンを奪うための伏線を張っているのです。
 そして、次のように続きます。
 
 ある日ノアが酒に酔ってテントで寝ていると、ハムが入ってきたが何もせずに出ていった。そのあとセムとヤペテが入ってきてノアに毛布をかけた。ノアは目を覚まし「カナンは呪われよ』と言った」とあります。
 なぜ「ハムは呪われよ」ではないのでしょうか。
 それに、おやじの裸を見たくらいが何だというのでしょうか。
 なぜ、眠っていたノアが、ハムは何もしなかったとわかったのでしょうか・・・
 何もかも不自然です。
 何かを隠しているのですが、それが何かはわかりません。
 ただ要するにカナンを取るのはカナンが悪いからだと、ヘブライ人が自己正当化できればいいので、それ以外の何物でもありません。
 沙漠の辺縁で羊飼いをするほかない貧しいヘブライ人にとってはカナンは乳と蜜の流れる地、垂涎の的だったからです。
 
 しかも、じつは、カナンに当時住んでいたのはセム系人種だったことが、『聖書辞典』(新教出版社 1955年プロテスタントの学者によるもの)には書かれています。いまキリスト教の本屋にある聖書辞典にはそういう記述はないようです。
 また、アラブ人もセム系であって、ハム系ではないのです。ハム系はエジプト人などです。
 
§ こんな嘘と作為にまみれたものを、自分たちの暴虐を正当化する理由にしているのが、今のユダヤ人たちです。彼らは、ナチスのホロコーストをはじめとする欧州でのユダヤ人差別と虐待、ポグロムのような皆殺しがあったので、自分たちはあらゆる被抑圧民族のなかのエリート、神に選ばれた者であり、何でも望みが叶えられる権利を与えられていると思っているようです。イスラエルにいるユダヤ人のうち、右派のリクード(ネタニヤウを党首とする)を支持する3分の2くらいはそうでしょう。残る3分の1の、労働党を支持するようなひとたちは、アラブ系との平和共存を希望しているはずです。労働党はかつてゴルダ・メイアという女性の首相を出しましたが、彼女はパレスチナ人を愛人にしていました。

 欧米は、貧乏なユダヤ人は差別され迫害される一方、国の権力中枢には金持のユダヤ人が大きな影響力を行使するという、二重の構造をもつ社会です。そんな国々がパレスチナ問題を解決できるわけがありません。彼らは、長年ユダヤ人を差別してきた張本人でありながら、自国内で問題を解決できないから、パレスチナに押しつけているのです。 
 それだけに、中国が今後BRICSなどを通じてパレスチナ問題にどう取り組むかは期待できそうです。

§ 創世記について、もうひとこと言うと、第1章から第2章に読み進むとき、注意深いひとは、おや?と思うはずです。天地創造と人間の起源について述べたくだりです。
 第1章では、世界は虚しく、霊が水の表を被っており、そこに神が「光あれ」と言うと光ができて、世界が照らされ、というふうにして1週間の間に神は宇宙をこしらえて、そこに動植物を生まれさせ、彼らを支配するために、人間を神の姿に似せてつくった、すなわち男と女につくった、とされています。
 ここで、神は「我らの形に似せて人間をつくろう」と言ったとあり、神は複数あったのか、と普通なら思いますが、教会の伝統的教義を固守するひとたちは、ここで神が複数なのは偉大さを示すための誇張的表現にすぎないと強弁します。
 では、どうして男と女なんですか? とくにカトリックは、これに答えられるんでしょうか。偽善者。だから曾野綾子だの犬飼道子などという人たちの本がプロテスタントの教会の図書室にまで置いてある始末です。日本基督教団でも憂慮していることです。私はクリスチャンではないので、日本基督教団シンパというわけでもありませんけれども、同教団のスタンスは正当だと思います。
 
§ とともに非常に重要なのは、第1章では、まず動植物が生まれ、そのあと人間が生まれた、ということになっていて、現在の進化論の立場からも異論はないのですが、そこから第2章に移ると、第1章ですでに動植物も人間もこしらえたのに、ここで、いわば卓袱台返しを食うことです。世界が出来たとき、そこには何もなかったので、神は土を取って人間の形につくり、それに命の息を吹き込んで人間として、アダムと呼んだ、そして、人ひとりなるはよからず、と言ってアダムのための助け手として、動植物を拵えた、というふうに、進化論とは逆のことを言うのです。

 男と女も、第1章では、ともに神の似姿である(カトリックのフランシスコ会の訳した聖書が、その注釈のなかで固執している苦しい言い逃れを無視するなら、女神がいたということです)とされていたのに、第2章ではご承知の通り、アダムの助け手としては動植物では物足りないから(へえ、神さまも失敗するのかぁ・・・)、アダムが寝てる間にあばら骨を取ってエバをつくった、というわけです。起きてる間にやったって、神さまなんだから、かまわないと思うのですが、なんて言うと、「あんた、ずいぶん細かいとこにこだわるねえ」とおっしゃるムキもありましょうが、細かいことにこだわってるのは、古代のベブライ人です、というのはさておき。

§ 要するに、創世記の第1章と第2章は矛盾するのです。
 マーク・トウェインの『地球からの手紙』という小説は、神に罰を食った元大天使のサタンが、流刑先の地球から、元同僚の大天使たちに書き送った手紙という設定で、地球で神を崇拝するとか言っている人間という連中がどんなに愚かであるかを色色述べていて、赤狩り(マーカーシーイズム)の時代の米国では、公立図書館の書棚から消え去ったくらい、じつに面白い作品ですが、そんなアンチ・クリストの作品でさえ、第1章と第2章の矛盾は指摘していません。
 人間というのは、軽率なものです。
 私は聖書学者ではないから、こんな指摘をするのが、自分が最初かどうかはわかりませんが、たしか、『イエスという男』や個人訳『新約聖書』などの素晴らしい著作をものしている聖書学者、田川建三氏は、指摘していたと思います。

§ なぜそんな矛盾を放置したのでしょうか? 
 古代のひとは、先祖から伝えられたものは大事にするということに徹していたからです。その点、資本主義の近代とはえらいちがいで、資本主義はあらゆるものがどんどん消費され捨てられなければならないという経済ですから、それがいろいろ問題を引き起こしているのですが、それはさておき、そういう古代人の保守主義が、創世記第1章と2章の矛盾を放置する結果を生んだのだと考えられます。

 それほどまでに原典墨守の古代ヘブライ人が、創世記第9章では、明らかに無理のあるノア泥酔とカナンは呪われよのお話をつくってしまったのでした。上に見たように、いかにも無理だらけのお話を。
 ユダヤ人の疚しい気持が現れていると思うのは私だけでしょうか?
 その彼らを「神の約束の地パレスチナ」に逃げさせた欧米諸国の罪はあまりにも深いと言わねばなりません。今ウクライナで戦争を引き起こし、ロシアとの闘いで、双方に数多くの死者を出しながら、軍需産業に儲けさせているのも、欧米諸国の傲慢さなのです(*)・・じつに業が深いと言うべきでしょう。日本はそんなものに加担して、米国の対中国覇権争いの手先となりつつあります。じつにあやういことです。

(*2022年2月28日、ロシアによる「特殊軍事作戦」が始まって5日目の英紙The Guardianは、「多くがNATO拡大は戦争になると警告した。それが無視された。我々は今米国の傲慢さの対価を払っている……ロシアのウクライナ攻撃は侵略行為であり、最近の展開でプーチンは主たる責任を負う。だが、NATOの傲慢で聞く耳持たぬ対ロシア政策は同等の責任を負う」と書いています。


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