じす、いず、あ、ぺーん!

 先日亡くなったザ・ドリフターズの志村けんは、私の世代からすると荒井注の後任である。見習時期から面白さは際立っていて、小学生の目から見て、後任として昇格するのは当然だと思った。
(最近放映された追悼番組では、必ずしも当然ではなかった、という内幕が語られていて、驚いた。)

 その荒井注の持ちネタであったのが、「じす、いず、あ、ぺーん!」である。

いまだに強烈な印象をもって、次のようなコントが思い出される。

国連を模した会議場で、外国人が英語で議論している。
JAPANの名札の席に座る荒井注は難しい表情で押し黙っている。
荒井注以外の出席者間の議論が紛糾する・・・それでも荒井注は押し黙る。
やがて出席者全員がJAPAN!JAPAN!と発言を求める。
おもむろに立ち上がった荒井注が、勿体付けて口を開くと・・・
ペンを手にして「じす、いず、あ、ぺーん!」
これで全員が滑る。(おなじみのズッコケ音楽とともに)

 このコントが受ける背景には、以下のような日本社会の共通認識があるものと考える。
 中学生水準の英語では聞き取れない、話せない。
 文法だけ習得しても聞き取れない、話せない。
 発音は正確でなければならない。カタカナ読みは話したことにならない。
 聞き取れない、話せない、つまり会話できないのは恥ずかしい。

 昭和末期・平成初期には、上記のような認識を煽り立てるような「ニューヨークでは、ロンドンでは英会話はこうだ!日本の学校教育は無意味だ」などと訳知り顔で書き立てる本が何種類も並んでいた。

 しかし、中身を見ると、その当時の流行語を使ったおしゃべりの仕方を書いているだけであって、仕事や生活など「生き死にに関わる」意思疎通方法を説明しているものではなかった。現代の日本で言えば、「まじ」「やっべ」「めっちゃ」を並び立てているようなものである。あるいは、居酒屋での土佐弁、薩摩弁会話を紹介しているようなものだ。

生き死にに関わる意思疎通の観点から、以下を断言できる。
 中学生水準の文法は極めて重要。必須の知識。
 発音の標準など存在しない。カタカナ英語で何ら問題ない。
 聞き取り、発音は慣れるのみ。標準など存在しないのだから。

 これに気が付き、確信を得たのは、30代後半になってからであった。最初の気付きは、30才前後(1990年前後)にヨーロッパに初めて出張した際に訪れた。

 まず、大陸では英語が標準語ではないことに驚いた。ドイツ、フランスそしてイタリアという大国では英語で日常生活が不可能。英語で生活可能なのはオランダやベルギーなど小国の都市部のみ。

 さすがに仕事は英語が共通語という前提ではあるものの、それも最低限の水準に止まり、現地法制とか総務事項となると現地語の知識なしでは全く話にならない。

 そして新鮮な驚きであったのは、英語の発音が“標準”ではないこと。スペイン、イタリアなどラテン語系の方々の発音は、我らが懐かしいカタカナ英語そのものにしか聞こえない。なによりも驚いたのは、ロンドンで話されている英語が全く聞き取れなかったこと。

 学生のころから英語には自信があり、ラジオ・テレビその他教材により、日本の学校教育での“標準”とイギリス英語との相違については、相応に理解しているという自負があった。CNNとBBCは違うな、などと悦に入っていた。しかし、ロンドンの職場で話されている英語は、理解しているつもりであった“イギリス英語”とは全く異なるもので、聞き取れなかったのである。

 あとになってから、ロンドンの職場で話されていたのは「シティ訛り」であることを知った。ロンドンの中でも方言があったのだ。この段階で、以下を学んだ。
 Globalな観点において“標準英語発音”など存在しない。
 中学校英語水準の文法を正確に遵守することが重要。
 カタカナ英語で恥ずかしいことはない。寧ろ個性として重要。

 その後、キャリアの中心となるアジアでの業務を重ねていき、この学びへの確信は揺るぎないものとして確立した。香港、シンガポール、バンコック、インドの地域ごと・・・みな現地の英語発音は独特で、文法すら変わっていることがある。だからこそ、中学校英語水準の文法に立ち返って意味を再確認することが極めて重要なのであり、聞き取りができないのは当然なのである。

 そして、最も重要な“文法”は、担当業務のtechnical termである。業界方言あるいは各社方言があるだろう。これを間違っているようでは、仕事にならない。特に「~する」、つまり動詞が重要である。用語と用語の定義とについて日本語、英語の対照表を作成しておけば完璧である。ここまで準備できていれば、中学1年生の文法でも十分仕事はできる。自信をもって「じす、いず、あ、ぺーん!」と叫べばよいのだ。

 さて、中華人民共和国は世界第2位のGDPを産出することとなり、供給(生産)の面でも需要(消費)の面でも世界経済の中で無視することができない、極めて強い影響力を持つ国となって久しい。これに伴い15年ほど前から、欧米で活躍してきた海外業務のスター人材的な方々が中国各地に異動してくる動きが目立ってきた。

 中国業務専門家として若干のひがみ根性も加わっていることは率直に認めるが、こういう英語にはうるさい方々に限って、肝心の日本語に対する着意に著しく欠ける傾向がある。日本語に対する着意が欠けると、漢字に対する着意も欠けてしまう。

 一方で、日本企業の中国現地拠点に勤務する現地採用の方々の日本語水準は極めて高い。彼らは、日本に渡航歴なくとも、日本語で卒論を書き、新卒でいきなり電話応対や総務的業務に就くことが可能である。この環境に欧米から異動してきた日本人は、得てして彼らが外国人であること、そこが外国であることを忘れて、いいかげんな日本語を使用してしまう。漢字を並べれば意思疎通が可能だと勘違いしてしまう。

 主語・述語も不明確に「これできるぅー?」とか、「あれはぁーぁ?」とか、「昨日のなにを、あれしといてぇ」とか言ってしまうのである。

  また、例えばドイツ語やフランス語であれば、Technical Termを定義に立ち返って確認するであろうに、中国語については、これを怠る。例えば中華人民共和国の会計原則に基づく「营业利润」は、日本の「営業利益」と定義が異なるにも拘らず、漢字の字面だけ見て同じであるとしてしまう事例を散見する。このような実態のみが理由ではないが、グローバル企業は英語を共通語にすべきである。

 現在、多くの中国人留学生に接する環境にある。長年中国業務に就いていたという背景から、彼らから言葉に関する悩みを打ち明けられることが多い。多くは、彼らの同世代である日本人学生の日本語についてである。

これに対して、彼らを激励して、以下のように答えている。
 君たちの日本語の方が文法として正しい。自信を持って良い。
 日本人同世代の文法の誤りを遠慮なく指摘しなさい。

我々も自信をもって「じす、いず、あ、ぺーん!」と叫ぼう!

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