北朝鮮と国歌と国家観と骨格
「君が代」が聞こえてきた。隣りのうちのテレビである。どういうわけか、必ず国歌吹奏まで聞いてスイッチを切ることにしているらしい。(向田邦子 「思い出トランプ」より「花の名前」)
かつては日本でも0時になるとテレビから「君が代」が聴こえてきたものだ。24時間放送が普通になった今、Eテレでしか見ない。あとは学校行事か大相撲、サッカーのW杯などで聴くくらいだろう。大人になると聴くことはあっても歌うとなるとまれ。民族派(つまり右翼)団体の勉強会ではなぜか2度同じ歌詞をくり返し歌った。「なぜ2度なんですか」と聞くと「そう決まってるんや」と言われた。理由は知らぬ。
韓国でもテレビの放送終了時に国歌が流れる。韓国でも北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国でも国家のことは「愛国歌」と呼ぶ。この映像をしっかり見ていると必ずちらりと竹島の映像が映される。こういうアピールが日本は弱い。領有権の主張をするなら、Eテレでもロダン作の「考える人」を映す前に考えるところがあるだろう。これでは考えているふりだけで何も考えていないことが丸わかりではないか。韓国に見習うべきところだ。なお、プロ野球の試合開始時にも国旗掲揚と共に愛国歌が流れる。
何でも韓国の市民権を得る条件のひとつが「愛国歌」の一番を何も見ないで歌えることと聞いた。時々映画でもこんなシーンが出て来る。多くの場合北朝鮮のスパイに疑われたやくざ者が憤慨し「俺が北のスパイだと?ふざけやがって!愛国歌歌えるぞ俺は!」と唐突に愛国歌を歌い出すのだ。実にコミカルである。
もちろん機会があればぼくは、君が代を歌うことに何ら躊躇はない。歌唱力は別として朗々と歌う。そして何も見ないで、というのは難しいが韓国の愛国歌と北朝鮮の愛国歌もたぶん歌える。
外国の国歌というのは扱いが難しい。その国民ではないのだから。とはいえ何らかの敬意を示さなければならぬと迷う。
今まで公的な場で北朝鮮の愛国歌を歌ったことは二度ある。一度は平壌の銀河水管弦楽団の公演の時。起立し愛国歌を歌った。あとはサッカーの試合。日本の味の素スタジアムでの中国対北朝鮮戦の時の取材の時こと。この時も起立し歌った。なお、我が家ではいわゆるサッカーなどの日本対北朝鮮の試合のテレビ観戦の時は起立し君が代を歌う。続いて、あるいは先んじて北朝鮮の愛国歌が流れる時はそちらも歌う。
これはやむを得ない。北朝鮮について文章を書いて、お金を頂いている以上スポンサーみたいな存在でもあり黙殺は出来ない。「いつもお世話になってます」という感覚で、割り切って歌う。
平壌の銀河水管弦楽団の公演で起立し愛国歌を歌った際は、案内員に「ほう。ちゃんと歌えるのですね」と感心された。「字幕ないと怪しいけどそりゃね」と笑って見せた。サッカーの中国対北朝鮮戦の時も在日コリアンの友人と歌った。取材とはいえ、ちょっとした一体感を感じた。結果は惜敗だったけど。
さて、北朝鮮の愛国歌を歌う時なのだが、視点は目の前にはためく国旗に向けるとして、手の位置が気になる。気をつけ!というのも何だか歌いにくいし、少し、小さじ一杯の敬意とちょっぴりの阿りを示しておきたい。だからぼくは右手を胸に当てることにしている。ジャケットのちょうど襟のボタン穴の部分にそっと当てる。本来そこにあるべき、紅いバッチをぼくは持っていないからだ。ぼくは外国人、しかも日本人なのですが、北朝鮮の市民のみなさん黙って見逃してねという気持ちを込めて。
北朝鮮と韓国に限らず、訪れた国の国歌を歌えるというのは大きなアドバンテージとなり得る。特に北朝鮮の場合、訪朝団ということでオフィシャルな行事、愛国歌を聴く行事に招かれることも多い。招かれ慣れしていないと突然の起立と、愛国歌斉唱に戸惑う。法事の読経よろしく頭を下げてむにゃむにゃと歌うふりでごまかす向きがほとんどだろうが、ここで朗々と歌って見せたら印象はがらりと変わる。一目置かれる。ああ、この人は出来るなと。面従腹背でも阿りでも、愛国歌を覚えて歌えることに損はない。
■ 北のHow to その59
北朝鮮における歌の力というのは後に書く予定ですが、愛国歌を歌える日本人の印象というのは、とてもいいものだったようです。背筋を伸ばし、胸に手をやりという所作も、案内員にはいい評価を貰えたようです。北朝鮮で出し抜くなら(同行者なり、他の国の人たちを)覚えておいて損はないテクニック。カタカナでもいいので、歌詞をメモにしておくのもいいでしょう。
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