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田舎町の母子家庭育ちが高校留学を実現するまでの旅路👣

「アメリカの高校を卒業しました。」

自身のバックグラウンドを話す上でこのライフステージは欠かせないの。

詳しい自己紹介はこちら👇


この経験に対して今まで出会った日本含むいろんな国の方々から、
「その若さで1人で異国に行くなんて考えもしなかった!」
「あなたとても勇敢ね!」
「とても理解力のある親御さんで恵まれてるね!」
そんなコメントをこの15年聞き続けていた。

ただ、自身が留学を決意した年齢&留学中だった年齢である中学〜高校生の子達からは切実な言葉を聞くことも多々あった。
「私も行ってみたいんですけど、うちにそんなお金の余裕ないし…」
「私の親絶対反対だから大学生になったらお金貯めて自分で行きます!」
などなど… etc.

そうだよね、自分自身が経済的自立してなかったり、欧米じゃぼちぼち大人扱いされるティーンだけど日本じゃ子供扱いだったりするし、なかなか難しいことがたくさんある。

言うて我が家は、私が8歳の時に父が他界してから母子家庭だし、私は3人兄弟の末っ子で既に上兄妹たちの教育費がかかっていること、とかを考えると、日本の私大より費用がかかる高校私費留学なんて実現不可能な理由は多くあった。

それでもなぜ実現できたのか。
留学を決意するまでの敬意、決意してからの説得&準備期間、そしてどうやって最終的に実現にこじつけたのかを、ちょっと思い出してみたいと思う。
(参考になるかはあなた次第。以下まあまあ長文。さーひあうぃーごー🙋)



留学しようと決意するまで

父の影響

海外在住経験があるとよく「ご家族みんな英語話せるんですか?」とか「ご両親の勧めで留学したんですか?」なんてよく聞かれるが、全くもってそんなことはない。

我が家で日本語以外の言語を話すのは私しかいないし、英語学習も留学も自分で決めて初めて実行したものだ。

ただ父の影響は少なからずある。

とくに、英語学習や国外に行くことと言った、新しいことを始めることに対してポジティブな印象があったのは父の影響が大きいだろう。

洋画が好きな父。
一緒に映画館に観に行くときは、当時まだ字幕も読めない小学校入学当初の私を連れてでも字幕版だった。
家にあった洋画のVHSも基本日英言語が切り替えられるやつ。
当時は深く考えてなかったけど、父の好きで見てた洋画から、英語という言語に対して心地良さを感じていたのかもしれない。

欲しいものや行きたいところへの投資は厭わなかった父。
携帯電話やペットロボットが市場に出たての頃、販売初期の段階で手にしてた新しいもの好きだったり、家族旅行の費用は全然ケチらなかった。
佐賀在住の我が家にとって、長崎のハウステンボスは家族で月1で遊びに行くぐらい大好きな場所だったんだけど、父にいたってはとっさに思い立ってソーセージだけ買いに行くこともあった。笑
それぐらい、時代のその時・その場にいる人とじゃないとできないことやものへの出費を惜しまなかった人。

そんな父は私が8歳の時、2000年に47歳の若さで亡くなった。
と言っても、本人は好きなことに溢れた人生で充実してた印象だったし、遺産は残らなくても家族の中には楽しい思い出に溢れてて幸せで、悲しさより清々しさが残る感じがした。

父がこのタイミングで亡くなったことで、私は知ったのだ。
「あっ、人って誰しもおじいちゃんおばあちゃんの年まで生きるんじゃないだ。人生の終わりって人そぞれなんだ」と。

子供ながらにそう学んでから、私は自然といつ人生の終わりが来てもいいように、「これだ!」と思う選択肢が見えた時には迷わずその道を選択する傾向が出てきた気がする。

今の時折やってくるフットワークの軽さがあるのは、そんな父の存在あってこそ。
共に過ごした時間と、あの時お別れが来たからこそ、その後の自分がいる。
死別で父がいないって話だけをするとよく可愛そうに思われちゃうんだけど、実際は全然そんなことないのですよ。

何事も意味なくそうなることなんて、きっとないんだと思う。(ふわふわ)

そして父のとの別れから2年ほど経った頃。私の見える世界はどんどん広くなって行くのだ。

英語学習の開始

時は留学する5年前。当時10歳、小学4年生3学期が始まった頃だった。

小3から大手通信教材を使って4科目の勉強をしていたのだけど、この頃英語教材の販売が開始していた。
毎月の教材が届く際に、この英語教材の広告が入っていて、
「英語かー。しゃべれたらなんかカッコ良さそう!」
そんな子供らしい純粋な、でも曖昧な動機から私の英語学習はスタートした。

この世にはバイリンガル教育に熱心はお母様方が多い印象だけど、私の母は正反対。笑
国語、もとい漢字が大の苦手な小学生だったので、
「あんた漢字も出来んとになんで英語やりたかとね!?」と多少疑問に思われたが、
「これからは英語の時代やけん国語より英語の方が大事かったい!」的なことを言って反論した気がする。
(今思えばちゃんと国語もやっておくべきだったとつくづく痛感するけどもw)

それまでやってた4科目の教材にちょうど飽きはじめてた時期だったし、基本習い事にお金をかけたくない母だったので、この4科目教材を解約することを条件に契約した英語教材。

当時としては最先端の、CD-Rソフトに入ってる教材を、ヘッドセットを使って発音とかも練習できる方法に、ゲーム感覚でハマっていった。
それまで特に何かに熱中することはリカちゃん人形遊びで止まってた子だったので、新たな趣味を見つけたかのような感覚だった。
(思い返せば小5までリカちゃんで遊んでたなー。苦笑)

通っていた小学校は佐賀の田舎町の小規模な小学校だったが、校区内の中学校で勤めてるALTの先生が月1ぐらいで来てくれて、英語活動的なことはしてくれてた。
学んだ英語を使うチャンス!とALTの先生が来る度に積極的に使っていると、実際に通じる喜びを感じどんどん熱中していった。

そして英語学習により拍車をかけるものに出会う。それがハリーポッターシリーズ。
ストーリー性、引き込まれる世界観、そしてハリー役のダニエル・ラドクリフに惚れ込んだことで、私の英語学習の動機はどんどんハリポタ関連にあっていく。

・映画を吹き替えでなく、オリジナルの音声で字幕なしで見れるようになりたい!
・日本語訳の本分厚すぎるやん!4巻目以降上下巻に分かれとるし…これは原書読めたら楽そう!
・新作公開になる度に記者会見でキャストの後ろで通訳してる通訳者さん羨ましいなー。私も将来はハリポタキャストの通訳したい!

そんな熱量で日々熱心に教材に打ち込み、最新のハリポタ情報を探すのに英語のウェブサイトも見るようになっていた。

英語学習は楽しいの気持ちしかなかったが、英語が伝わる楽しさだけで留学を決めたわけじゃない。

これには姉の存在がとても大きい。

末っ子だから知れた多様な進路

私には7歳上の姉と、5歳上の兄がいる。
末っ子あるあるかもしれないけど、上兄弟の良いとこも改善点も見ながら成長することが出来る、ってあるよね?←

私の場合は姉から【進路の多様性】を英語学習を始めた時期(10歳時)に学べたのが大きい。

というのも、姉は家から通える範囲の高校ではなく、県外に本校がある通信制の高校を選び、スクーリング以外は地元でバイトするとい生活をしていた。

金銭的に母に完全に依存することなく、県外の日本各地に友人を作っていた姉が身近にいたことからこんなことを思った。
「そうか、高校生からは自分に責任持てれば別に近所の高校行かなくてもいいのか!ってか高校なんて義務教育でもないのになんでみんな行くんだろう…?私は勉強そんなに好きじゃないから、高校は行きたくないなー」

周囲からは、
「高校行くの当たり前じゃん!」
「行かないと将来困るよ!」
なんてことを同級生からも、先生などの大人からも言われた。

今思えば「高校行きたくない」なんてちょっとひねくれてたかもだけど、当時は至ってまじめだった。ただ単純に、やりいたくないことはやらなくてもいいはずの義務教育期間後に、社会的にやらなくてはいけないことがある、そんな社会の構図が違和感だったのだ。
行かないと将来困るぐらいなら、義務化して教育の平等化をしたほうが良いんじゃないかな。(ふわふわ)

でもこの目線はこの姉の存在があってこそ。
この家の末っ子として産まれてなかったら、こんな考えも浮かばなかっただろう。

というか、なぜ高校進学に前向きじゃなかったのか。それは日本の学校教育の仕組みや、英語学習を始めてからの周囲の反応が大きかった。

英語を学びだしてから周囲の反応。そして憧れだす『外』の世界🌏

私が英語学習のスタートに選んだ教材は発音重視だった。
学習ソフト内のキャラクターが英語で話しかけ、それに対する応対を選択問題から選び、選択した文章をヘッドセット使って発音するというもの。
応対が正解でも、発音が正確でないと次に進めないので、付属の発音解説とかも見ながら、熱中して教材を進めていた。

すると自然とカタカナ英語ではなく、教材内で正確とされていたアメリカ英語が自然と身についていた。
(でも文法とかはちゃんと解説読まなかったもんだからボロボロったけど。苦笑)

それなので、小学生の時唯一英語を話す機会になっていた、月に1度の英語活動の時には学んだアメリカ英語の発音でALTと接していた。

カタカナ英語でなくネイティブ近い発音を日本の学校教育の場でするとどうなるのか。

そう、茶化される。

これが英会話スクールとか身近にない20年前の佐賀の田舎町で、同級生に洋楽や洋画に興味がない人たちの中にいると、より茶化されやすくなる。

「こっちの方が実際使う時通じやすいはずだし、実際ALTの先生も褒めてくれてるのに、なんでみんなクスクス笑うんだろう…」

率直な疑問と、周囲の自分の意思の有無関係なしに周りの空気に合わせてる感じが徐々に居心地良くなくなっていった小学高学年の頃。

元々協調生にかける性格ではあったが、周囲との違いを感じることはこの頃までなかった。
でも違いを感じ出すと、違うが故に周りに溶け込みずらくなっていることに気づいた。

英語の発音だけが理由ではない。
休み時間はクラスメイトと遊ぶより1人行動が好きだったり、運動会とかを友人ほど全力で楽しめなかったり、教科書の内容以外は発言しにくい授業の空気感が苦手だった。

(後に留学先でホームスクーリングとか知って思ったけど、学校という学び舎以外にも学びの場のオプションがあれば、私は学校に行かないことを選択したかもしれないなー。)

大好きなハリーポッターを見ていると次第に作品の世界観、基イギリスに憧れを持ち出し、私は地元や日本の外に居場所があるのでは?と考えるようになるのです。

初めての短期留学🛫そこから芽生え出した根拠のない自信

周囲との違いに違和感を感じつつ、英語学習は楽しく継続し、ついに小学生生活も終わりが見えてきた6年生の3学期。

とある日のホームルームであるチラシが配られた。
留学エージェント主催の、小中学生向けの春休みを利用した短期ホームステイプログラムのチラシ。

米国LA、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ…各英語圏が並ぶ中私の目を引いた行き先があった。
【ハリーポッターゆかりの地を巡る 英国10日間】

もはや留学っていうよりパッケージ旅行みたいな感じだけど、当時ハリーポッターに激ハマりしていたことを考えると、このネーミングで行きたくなくないわけがない。

費用はたしか40万円ぐらいだっただろうか。
速攻母に相談した。

日頃から英語学習を楽しんでいたことや、祖父母からもらっていたお小遣いをほぼほぼハリーポッター関連に使うほどのファンだったこともあり大きく反対することはなかった。
ただ、パートの仕事のみで、子供3人を育てる生活に必要な最低限の収入しかない母子家庭の我が家だ。
子供の意思を尊重しようにもそんな大金の用意など簡単なことではない。

そんな家庭環境でも母から出た条件は1つ
「今まで貯めといたえりのお年玉全額使っていいなら行っていいよ」

なんと。父が亡くなった後に収入が減っても、子供のためいただいたお金はちゃんと子供それぞ銀行口座に入れておいてくれたらしい。
なんて準備が良すぎる母なんだ。

金銭面はこれクリア。

このホームステイプログラムは九州内から申し込んで来た同世代の子達と一緒に現地入りし、一緒の語学学校に通い、一緒にハリポタロケ地巡りを含めた観光もするとのことで、「我が子を1人で異国に行かせる不安」的なのは軽減できたのも大きい。

この初1人海外が実現したことで、私は小学校の卒業文集にこんな自分の未来を描いていた。

イギリス色、強いな−笑

小学校を無事卒業した数週間後、私はイギリスに行った。

この時点で2年は英語を学んでいるはずなのに、基礎文法もよく分からないまま。I・My・Me・Mineの違いさえ分かってなかった。
ホストファミリーにシャワーや洗濯機の使い方すら聞けなくて、このステイ中シャワーを浴びれなくて、洗濯は手洗いしてたほどだ。
(今考えると一緒に行ってたガイドさんとかに相談すればよかったのにね。)

ただそんなことも、夢にまで見たイギリスの景色や一緒に行ったメンバーの中に大のハリポタファンがいたこともあって、楽しさがほとんどのまま時はあっという間に過ぎた。

街並みだけでなく、様々な肌の色の人が行き交ってる街の雰囲気も実に心地よかった。
そしてなんとなく確信した。
もしかしたら私の居場所って日本の外にあるっぽい」と。

そして帰路の経由地、シンガポールのチャンギ空港で帰りたくなさすぎて大号泣してる時に私は決意した。
そうだ、日本の外で高校生になろう。

いろいろ難しいことはあるかもだけど、なぜか「私なら行ける!」という根拠のない自信が大きくあった。

そんな自信を胸に、中学校生活が始まる。


決意してからの説得期間

中学生活、孤独なスタート

「海外で高校生になりたい!」
中学生になった私はすぐに友人や母にそうもらしていた。

友人たちはこぞってこんなことを言った。
「名前がアルファベットの高校なんて行ったら、その後こっち(日本国内)で就職する時どこも雇ってくれないかもよ?」
将来の不安など考えたこともなかった私にとって、周囲は自分が思ってた以上に未来のことを考えていて、その辺の価値観の違いに驚いた。

私にとっては高校の名前が漢字でもアルファベットでも【高校】って場所には変わりないと思ってたんだけどなー。

いたって母はどうかというと、大きな反対はなかった。でも賛成でもなかった。あったのは1つの提案。
「交換留学とかあるやん?3年丸々じゃなくてそっち使うのどう?」

交換留学、要は日本国内の海外に姉妹校持ってる高校に進学する、もしくは留学エージェントを使うなどして、3年ある高校生活の内1年を国外で過ごすというもの。
卒業目的の私費留学と比べると学費が格段と安くなるので、金銭的余裕がない我が家のことを考えると納得のオプションだ。

ただ私はどうしても日本国内で高校生になることがイメージできなかった。
制服着て、学校行事に参加して青春感じて、放課後はクラスメイトとプリクラとって… そんな日々を中学以降も過ごすならば、私はやはり高校進学なんてしたくなかった。

でも自分のそんなモヤモヤを分かってくれる人は周囲にいない。

『世間一般的』に高校生になることは『当たり前』のことで、そこを通らないと社会に出た後に苦労するに決まってる。だから『義務』ではないけど、高校生には『ならなくてはならない』。
そして高校生になるなら、家から通える範囲の学校を選ぶことが『普通』で、寮生や違う地方の学校を選べるのは『特別』な例。

周囲の同世代や先生を始めとする大人たちはこぞってそんな『あたりまえ』を疑うことなく、従う or 推めてくるもんだから困ったものだ。

気づけば心の拠り所はリアルの様なフィクションの中。
大好きなハリーポッターシリーズや、中学生からハマりだしたディズニーチャンネル作品で出会う個性的なキャラクターたちに癒やしを求めながら日々を過ごしてる自分がいた。

「これはとりあえず自分の熱意や本気度を分かってもらうために現実可能な方法をリサーチすることから始めよう!」

ということでパソコンや資料とにらめっこする毎日が始まった。

限られた情報源の中でもひたすらあさりまくった日々

「海外の高校に行くんだ!」と決めた直後、まずやったことはなんだったかな… (実際この辺の記憶曖昧)

日常的にやってたのは特にこの3点:
・留学雑誌を読む
・留学エージェント各社から資料請求&各社比較
・日々のネットサーフィン通して最新情報集め
とかだったとやんわり記憶している。

留学雑誌は文字通り、留学行くまでのステップや留学体験談などが乗ってる雑誌のこと。
大手だと「留学ジャーナル」とかが今でも第一線で出版されるやつだと思う。
行くまでのイメージ作りや大まかなやることリストを作るのは役立った。
様々なエージェントの広告も随所に乗ってたので、気になるエージェントをネットで検索するきっかけにもなった。

現代と比べるとエージェントの比較や、おすすめサイトは見つけにくい時代だったように思うから、とりあえず中1の1年は高校留学の取り扱いの有無関係なしに、留学にかかる費用や各国の傾向の比較のためにとりあえずたくさんのエージェントの資料を読んだ。

ほぼ毎日のようにどこかしらからから届く資料を読み漁ってたから、もしかしたら留学カウンセラーの方より情報あったかも知れない説さえある。←

そして膨大な情報を日々目にしていく中で大体気づいてくる。
「あーやっぱり留学ってお金かかるんだなー。ってかネットでも雑誌でも、目にする体験記もご両親が高収入世帯&育ちが都内の人ばっかじゃないか。なんだか私の状況(田舎在住の片親家庭)とかけ離れすぎている…」

なんとか我が家の経済状況でも行けそうなとこを探し、母にプレゼンしてみるもやはり難しい。
ってか金額ばかり気にしすぎて実際そんなに惹かれるエージェントや学校じゃなかったりした。
気持ちが乗ってなかったのも、承認されなかった要因かもしれないなー、とこれ書きながら振り返ってる今。

留学実現までの道筋はまだこの時は見えてなかったし、中学生活は小学校同様居心地の良さを見いだせずにいたけど、そんな日々でもコミュニティの中で胸が躍るものを1つ見つけた。

中学生活で見つけた熱中出来るもの

小さな田舎町の中学校だったので、クラスメイトは小学生の時からと同じメンバー。
っていうことは分かってたから県内の公立中高一貫校を小6の時受験したんだけど、受験勉強苦手すぎて合格は叶わず、渋々地元の中学に通っているような気分だった。

小学生の時同様、授業中の空気読んでる雰囲気や全員参加が必須な学校行事以外にも、参加が義務化されていた部活動への参加というのも、学校という場所への居心地の悪さを引き立たせていた。

そんな学校生活の中でも心が踊ったもの、それはやはり英語学習だった。

小学生の時は月1だった英語活動。
でも中学生になったら授業としてあるし、ALTの先生と話すタイミングも増えた。

小学生時代は発音重視で、文法や語彙増やすことやってなかったから、そこに取り組めるのがそもそも楽しかった。

イギリスホームステイの際に、ホストファミリーに伝えたいことが伝えられなかった失敗経験の存在も大きい。
実際に英語環境に身を置いた経験を短期間でもしたというのは、その後の英語学習の目標設定をする上で「こういう風になりたい!」という憧れ像を抱きやすくなったので有効だったのだろう。

そんな自身の英語学習への熱と裏腹に、周囲のクラスメイトにとって英語は他科目と同じ、ただの学校で学ぶべき科目の1つにすぎなかったようだ。

ローマ字と読み方が違うフォニックスがなかなか腑に落ちない子。
英文法学習を完全に『受験英語』と捉えてしまって、日本語との違いに四苦八苦し英語嫌いになる子。
テストの点は良いが、実際にALTの先生に英語で話すことをためらってた子。

私にとっては他強化と違って、自身の世界を見方を変えるようなすごく実用性のある教科だったのだけど、英語というツールを使えるようになりたい動機がない、必要性や可能性を伝える授業をしていなかった義務教育内の英語教育自体に問題があったのかもしれないなー。(ふわふわ)

学校生活内でも英語学習も楽しかったが、自分で出来る学習方法をこの頃から模索していた。
いかんせん小学生時代に熱中していた教材は元々2年で修了するプログラムだったからすでに全ソフト終わってたし、地元は英会話の習い事が出来る場は当時なかったしで、学習方法は自分で探すしかなかったのだ。

でもあの時模索したやり方が後の留学生活に活きたものもあるし、もっというと大人になった今現在も似たようなやり方してるものもあるから、どんなことしてたか思い出してみようとと思う。

好きなものからあみ出した独自の英語学習法

私の英語学習に一環して言えること、それは書籍ベースの教材をほぼほぼ使わずにやってきたということ。
特に英語学習初期の動機が、大好きだったハリーポッターシリーズ絡みだったこともあって、好きなエンタメから吸収するスタイルは現在もほぼ変わっていない。

主にどうやってエンタメを英語学習に活かしていたかというと👇
DVDで映画を見る場合:日本語字幕→字幕なし→英語字幕で見る
2ヶ国語放送の海外ドラマの場合:日本語吹き替え音声で数回見る→英語音声に切り替えて視聴
*映像作品を使う場合は、気になるセリフは真似っ子してみる
洋楽を使う場合:歌詞など見ずにまずは楽曲を楽しむ→歌詞見ながら聞く→日本語訳と照らし合わせながら聞く→聞きながら一緒に歌う

無意識的にだけど、英語の3技能(聞く・読む・話す)は使っていたんだなーと書き出してみて気づいた。

これは第二言語習得論的にもある意味理が叶っているっちゃいる話。
第一言語(母国語)と違って、第二言語って赤ちゃんの時みたいに聞くだけで習得するのってある一定の年齢すぎたら難しいらしい。
だからただ聞くだけじゃなくて、聞いた内容を字幕や歌詞カードで見るっていうのは語順の理解や誤った単語を覚えないために適切だったようです。
しかもどの場合でも、日本語訳を通して物語や楽曲の情景を理解した上で英文を見るので、理解力が深まる(気がする)。
ただ大事なのは、字幕や訳は直訳ではなく、物語の流れや楽曲に込められた想いをベースに日本語化されているので、そこを念頭に置いた上で参考程度に読むと、後々「英語を英語で考える頭」を形成するのに役立つのかなと。(知らんけど笑)

このエンタメ利用学習法で個人的に1番大事だと思ってるのは、最後の真似っ子のフェーズ。
キャラクターやシンガーになりきって、セリフ1つや曲もサビのフレーズだけでも歌ってみる → 恥ずかしいかもだけどそれを録音して聞いてみる → 自分の納得いく発音までひたすら練習

そんなことをしてると4技能の中でも特にスピーキングの面で利点がいろいろあったのだ。
・自然と英文を単語ごとに区切らず音声変化してリンキング出来るようになってた
・カタカナ発音ではなくフォニックスが自然と身についてた
・しっかり言語に気持ち乗せて発話出来るようになった=イントネーションが自然だった

アウトプットの機会が限られていた当時だからこそ、1人でも出来るスピーキング練習、してたんだなー。

ちなみに当時はハリーポッター以外だと、ディズニーチャンネルのドラマや映画(ハンナモンタナやハイスクールミュージカル)とか、洋楽はアヴリル・ラヴィーンやデスティニーチャイルドにハマってまひた🙋(世代感じるー笑)

後に留学してから気づいたけど、特にディズニーチャンネルの作品を使っててよかったのが、作品のほとんどが学園ものなので、学校生活に必要な何気ない日常表現や単語を自然と覚えることができた点。

そうやって独自の方法で試行錯誤しながら学習を進める中、アウトプットの機会が舞い込んできた。

巡ってきた国際交流のチャンス

それは中学1年生の夏休み前。
母の友人のご兄弟で、旅行代理店に勤める方からこんなチラシをいただいた。
【USAサマーキャンプ 参加者募集!】

なんでも、日本国内、しかも九州内でアメリカ人キャンプカウンセラー達と2泊3日英語漬けになれるサマーキャンプらしい。
私が英語の勉強好きだったり、異文化に興味あることをこの母の友人が知ってておすすめしてくれたのだ。

書き忘れていたが小6の夏休みにも似たようなサマキャンに参加していた。
そのサマキャンはAPU(立命館アジア太平洋大学)の留学生との交流キャンプだったのだけど、共通言語は英語のキャンプってことはこのUSAサマーキャンプと条件は同じだった。
数日のキャンプにも関わらず、最終日には日本語すら英語に聞こえるほどの英語耳になっていて驚いた。
そして様々な文化圏の人たちと交流出来ることが単純に楽しかった。

中学生になってからはディズニーチャンネルの学生ドラマや映画にハマっていたこともあり、アメリカの空気感にも興味があったので、このサマキャンは行きたくないわけがなかった。

仕方なし参加していた部活動の夏休みの練習を数日でもスキップ出来る良い口実になるし(苦笑)、国外へのホームステイと比べたら安価で参加出来ることもあり母も了承してくれた。

(私の通っていた地元の公立中学では部活動が義務化されていたのです。しかも小規模の中学故やりたい部活がなく、仕方なし部費が1番安かった卓球部に所属していましたが、全然楽しくなかったなー。)

そして待ちに待ったサマキャン当日!集合場所のバスターミナルで他の参加者と合流し、会場の施設まで同じバスで向かう。
他のみんなは友人と一緒だったりする中、私だけ1人ぼっち。
若干の寂しさを感じながらキャンプがスタートした。

キャンプカウンセラーのアメリカ人たちは、夏休みを使って来日してる大学生達。
ハイテンションのカウンセラーたちと一緒に、英語でゲームしたり、お店屋さんごっこやフェスティバルを想定したイベントでアメリカ文化を体感したり、夜はダンスパーティーやキャンプファイヤーでわいわい楽しい時間があっという間にすぎた。

楽しすぎて最終日のクロージンズの際には大号泣して、仲良くなったカウンセラーに励ましてもらったことを、今でもよく覚えている。

そして改めて強く思った。
やっぱり私日本だけじゃなくてもっと広い世界がみたい。高校は国外以外考えられない!」と。

このキャンプがとても気に入って、中2の時も参加した。
その際はイギリスホームステイの際に仲良くなった県内の友人も一緒に。
「田舎だから国際交流の機会なんてないよな…」と諦めるのではなく、周囲に自身の興味関心を素直に伝えていると、こうやってドンピシャな機会がやってくるんだなーと知るきっかけになった。

国内にこういう機会があるだけでもありがたかったのに、私の高校留学への熱を加速させる機会が、これまた突然やってきた。

予想外にやってきた意思確認のチャンス

あれは中2の2学期が始まった頃だろうか。突然私達3兄弟それぞれに数十万のお金が入ってくる出来事が発生した。

私の両親は父の生前、自営業で会社を経営していた。
父が亡くなってからは母1人での経営が難しく会社を畳んだのだけど、会社の敷地は家族それぞれの名義で残っていたらしい。

その土地に親戚が新たに会社を作りたいとのことで、敷地を買ってくれることになったのだ。

母のことを考えると、いくら名義が子の名前の土地と言え、家のローンとかいろいろまとまったお金は必要なときだったはずだから子供に分配せずとも、家庭の必要経費に使ってもよかっただろうに… それでも平等にそのお金は私達のもとに渡ってきた。

「このお金、好きなことに使ってよかよ!」
そう言われて渡された大金。やりたいことは明確だった。

高校生になる前にもう1度短期ホームステイに行くこと。

小学校の卒業文集にこんなこと書いてたしね👇

小学校卒業後の自分【何度もホームステイをして英語がペラペラ〜】

以前参加したプログラムを運営しているエージェントでは各長期休暇(春・夏・冬)に同様のプログラムを運営していたので迷わずそこを使用した。

イギリス以外の国も検討したが、前回イギリスで英語に苦労したことを思い返し、リベンジも兼ねてまたイギリスにすることに。
結果前回と比べて英語力の向上を感じられた10日間だった。

学校の授業や日頃の自己流英語学習の成果もあってか、ホストファミリーや語学学校の先生、ツアーガイドさんの言っていることがある程度わかるようになっていることに気づき、嬉しかった。

リスニングの成果だけじゃない。びっくりしたのがとっさの英語での応対力。
道端で道を聞く時、突然時間を聞かれた時、スッと答えられる自分がいた。
文法的に合ってる返答を出来てたかは記憶にないが、間違いを恐れず英語で返答ができ、会話が成り立っていたことに自分でも驚いたことは確かだ。

英語力に自身が持てたことで、ホストファミリーとの会話やツアーをより楽しめたようにも思う。

そして自分の意思を再確認する。
やっぱり私は海外の高校に行きたい」と。

この時点ですでに数回母を説得していたのだけど、未だ交換留学案一択だった。

説得と言っても直接プレゼンするのは緊張してなかなか出来なかったので、希望留学先の内容を値段や学校規模などわかりやすくまとめて、母の就寝前に母の枕元に置いたりしてそーっと情報を共有し、後日意見を聞いてみるというもの。🙈

「お母さんいなくてあんた大丈夫なの?」的な心配をされることはなかった。
きっとそれは父が亡くなってから積極的に家のこと(食器洗いや洗濯物)はやってたり、自分の貯金の管理は小学校高学年からやってたりしてたから、自立面での心配はなかったようだ。
ただやはり大きかった金銭的な壁。
母的には「行かせたいけどどうしたら…」的な葛藤が大きかったそう。

「国外がだめなら国内のインターナショナルスクールっていう手もあるなー」と思ったりもしたが、
「インターって言っても、学校以外は日本じゃないか。やっぱり国内には妥協したくないなー」という想いが強かった。

そんな中2の冬のタイミングだったからこそ、大きな意味があった英国での時間だった。

背中を押してくれたあの時またイギリスに行く決断をした自分に感謝。

前向きな気持ちで帰国した後もひたすらリサーチを進めていたとある日。ついに留学実現へ向けた歯車が動き始める。


徐々に現実味を帯びてきた準備期間

直感的に惹かれた学校との出会い

中3になる前後ぐらいだっただろうか。いつもどおり留学雑誌を読んでいたある日。始めて聞くエージェントの広告を目にした。
この時点で約2年、膨大なエージェントの資料を読んでいたはず。知らないとこのはとりあえず資料請求しとくか〜っていう軽い気持ちで資料を取り寄せた。

それまで読み込んでいた高校留学専門エージェントが取り扱う高校は、イギリス・スイスのボーディングスクールだったり、各国の大都市にある学校が掲載されていることが多かった。

ただこのエージェントはアメリカの、しかも郊外の学校を取り扱っているようだった。
中でも売り込んでたのが西海岸オレゴン州にある学校達。
それまでアメリカといえば、NYやLAのイメージが強かった私にとって初耳の場所。
調べてみると日本と同じ四季があり自然豊かで、日本人がまだ当時は少なく、全米でも少ない消費税がない州だということがわかった。

なるべく都市部より地元と雰囲気が似ている落ち着いた町が理想だったり、日本人が少ないところが魅力的だったり、3年間という長期間留学をする上で少しでも生活費を削減するために消費税なしは最高すぎたりと、オレゴンには惹かれる理由しかなかった。

当時はオーストラリア・NZ・カナダへの高校留学が人気だったので、アメリカ人気が落ち着いてたことも大きい。

そしてそんなオレゴン内でも、規模感や選択科目の充実さや留学生のケアの面で惹かれた学校が、州都のSalemにあるとこを、このエージェントのパンフレットを通して知る。

さっそく電話カウンセリングでカウンセラーの方とお話しし、いい感じの雰囲気で安心。
(今考えたらこういうのって親御さんが問い合わせるだろうに、私の場合当時中学生の自分自身でやってたから、電話越しのエージェントさん達びっくりさせてたかもなー)

金額的に、ボーディングスクールなどと比べると大分お得なこともあり、2年以上説得してきた母もなんとか了承してくれた。
「お金はお母さんとじいちゃんばあちゃんでどがんかするけん、後は自分で手続きしいよ!」
そう言われ、やっと夢のスタートに立った。

きっとそれでも金銭的には大分難しかっただろうに、「海外で高校生になりたい!」と言い始めたその日から2年以上、毎日資料とパソコンにかじりついて情報収集してたり、英語学習や異文化交流を楽しんでたり、日頃からハリポタやディズニーと言った英語でのエンタメが好きだったことで、
「とりあえずやってみればいい」と思ってくれたそうです。

子供の自主性を尊重してくれた母には、感謝してもしきれない。

さて、そうとなればすぐさまエージェントへ申込用紙を記入!
用紙の受理の連絡の後に申込金を支払うフローだったのだが、数週間経っても受理の連絡がない。

ん?これは… と思いエージェントのHPを確認しようとすると、すでにHPはなくなっており、会社そのものがなくなっているようだった。

せっかく出会えたエージェントだったのに… と数日がっかりしたが、すぐに気を取り直して、
「よし!こうなったら直接学校に連絡とって入学すればいい!」
そんな、当時英検3級レベルの英語力の中3女子は思い立った。

願書請求までは翻訳アプリ使いながらなんとかやっていたが、やはり1人だと大変だと思っていた中3の夏、思っても見なかった救世主が現れる。

運命的な偶然、エージェントなしでの留学を可能にした救世主の登場

【オレゴン】という地が、母が留学承認してくれた1つの要因であったと、後々わかる出来事がやってきた。

それは中3の夏休み頃。
「そういえば親戚のあの人、1人で準備してオレゴンに留学したらしかよ!ちょっと今度話聞きに行ってみる?」
そんなことを聞かれたら、行かないわけがない!

親戚と言っても遠い親戚だったので、この留学を決意するまでお会いしたことがなかった。
お会いしてみると当時20代後半で、数年に1回半年〜1年ほどで留学や長期旅行に行くのが趣味な方だった。
そしてその方の直近の渡航先がオレゴンだったのだ!
しかも私がしようとしているエージェントを使用せずの留学をやり遂げた人でもある。

「お金以外は1人でなんとかしろと言われた時に現れた救世主にじゃん!これは頼らねば🙏」
そんなすがる思いでサポートをお願いした。

願書の書き方アドバイス、ビザ取得のサポートを主にお願いして隔週ぐらいの頻度でこの親戚のお姉さんのお家にお邪魔しながらちょっとずつことを進めて行っていた。

とある日、お姉さんからこんな提案をされた。
「そういえばえりちゃん、中学校卒業してあっちで新学期始まる9月までなにするの?私が行ってた語学学校で良ければ紹介するよ🙋」

はっ!この空白期間のことなんにも考えてなかった!

そう、日本のスクールタームが終わるのは3月。アメリカのニュータームが始まるのは9月。
この5ヶ月ほどの期間何をするのか、ふわふわしていたことでのこの提案。
教えていただいたのはオレゴン州Portlandにある語学学校で、学費は他の主要都市の学校と比べると2/3ほどだし、お姉さんは校長先生と仲良かったそうで、普段はこの学校じゃやってないホストファミリー探しもお願いすればやってくれそうとのこと👀

なんだよ、願ってもなかったけど、めちゃめちゃ条件いいじゃないか!
日本で5ヶ月英語の自主勉するより、実際の英語環境に身を置く方が高校生活開始に向かって心の準備が出来そうだと思い、語学学校への出願もここからスタート。

時は中3の2学期。
周囲の同級生は受験勉強を本格化させ、みんな志望校をどこにするかで盛り上がる季節。
そんな中教室で、いや校内で唯一英語だけで書かれた願書とにらめっこし、電子辞書フル活用で記入を進めているのは、私1人だけだった。

中学生活が始まった直後は周囲から浮いてるように思われて孤独だったが、どんなに周囲に「外国の高校に進学なんて無理だ」とか「大学生になってからでいいじゃないか」なんて言われ続けても、しぶとく「私は絶対海外で高校生になる!」と言い続けた。
ほとんどのクラスメイトが学校外での人との繋がりが習い事や塾という家から通える範囲のコミュニティだった中、私は短期ホームステイやサマーキャンプを通して県外や国外に人脈を広げようとしていたし。
そんなことをしていると次第に周囲は、私が高校留学しようとしてることに対して、「えりちゃんらしいね!」と言ってくれるようになっていた。

やっと周囲の理解が得られた嬉しさの反面、『自分らしさ』はこの町では相当なマイノリティーだと感じ、孤独感からは抜け出せないままだった。

そんな頃からだろうか。私は実際に人に会う以外の人と知り合う方法を知るのだ。

オンラインの世界に見つけた同士達

携帯電話を持ち出したのは小学校高学年から。
母が仕事で帰りが遅くなることもあったので、帰宅時間ややっておいてほしい家事などの共有・連絡事項に家電よりメールが楽だし、ということもあり当時は中高生で持つことが主流だったけど早めに持たせてもらえた。

持ち始めた当初はパケット料金が高額でなかなかネットは使えなかったけど、中学生ぐらいからはパケ放題プランも出てきて、日頃の留学やハリポタ情報の検索に使っていた。

このなんとも言えない孤独感を感じてた中3のタイミングで、あるサービスと出会う。それが【モバゲー】

今でも大手のゲームアプリ会社として有名だけど、サービス開始時の2000年代後半は、SNSとして機能してる側面もあったよね。(同世代やあの頃携帯持ってた人しか分からない話w)

セキュリティ上携帯電話やメールアドレスは交換出来なかったので、当時流行ってた出会い系サイトみたいに誰かに言い寄られるようなこともリスク回避出来たし、安心感高めであった。

モバゲーでは、現在の主要SNSと同様、自分のプロフ欄がありそこで自分の興味関心をみんな書いてる感じだったように記憶してるのだけど、私はそこに留学予定なことも書いていた。

そうするとびっくりしたことに似たような状況の子たちと出会えたのだ!

すでに高校留学中の子、
まだまだ親御さん説得中だけど高校留学したくてたまらない子、
実現にむけて絶賛準備中な子、などなど

もちろん高校留学する人がこの世にいることは知っていた。
留学雑誌やネットを通してたくさんの体験談を読んでたし。
それでもそんな人達と思いを分かち合えること、日本以外の世界を語り合うこと、そんなことが実際に人に合わずとも、ソーシャルという世界の中で出来るという嬉しさを強く感じた。

地元に友人がいなかったわけではない。
長い付き合いの子は保育所に通ってた頃からの友人だっていた。
でも学校外で自分の好きなこと、やりたいことに共感し分かり会える人たちがこんなにいるんだと知った時、ふと気づいてしまった。

「地元の友人って、出会いの場が『学校』しかなかったからとりあえず仲良くしてただけなのかしれない」ってね。
(なんて言うと地元の皆さんに「友達って思ってなかったの!?」って思われそうだけど、今でも連絡とる数少ない地元のお友達の皆さんは大人になっても尊敬出来る素敵な皆さんだよ!)

子供、もとい地元を出るまでって学校が唯一のコミュニティに感じがちで、人によってはそのコミュニティに馴染めなかったが故に孤独の渦に入ってしまう人もいる。

私の場合はそもそも姉が県外の通信制の高校に行ったことをきっかけに、「コミュニティは自分で選べる」って早い段階で気づけたけど、なかなかそのことに気づけないまま、社会人になる人って多いのかも。

モバゲー時代に見つけたこの同士達の一部は、今でも繋がってる不思議なご縁。
15年以上前の私でもソーシャル上に仲間を見つけれたんだから、今は各プラットホームの規模も大きくなったし、いろんな世代の人がSNSを使うようになったからこそ、リアルじゃ孤独でも、ソーシャルだったら似たような境遇の仲間を見つけやすくなったんじゃないかな。(ふわふわ)

そうやって、ネットの世界に仲間を見つけ、前向きな気持ちで留学準備を推めつつ、私は留学前の英語学習の集大成としてある大会にチャレンジしていた。
そしてその大会を通して、またすごい出会いがやってくる。

価値観を広げた中学生活1番の大イベント

その大会との出会いは小6の秋。
私の住んでた地区では、その地区の小学5年生〜中学3年生までが集まって【青少年主張会】的な名前のイベントが毎年秋に行われていた。

この会では各学年から選ばれた代表が各々作文を朗読するの。
『主張会』って名前だから話題のニュースに関して思うこととか、将来の夢とか、そんなことを話してたかな。

そして中学生には英語でのスピーチ枠もあった。
私の中学があった地区では毎年、英語の暗唱大会に各学年から出場していたし、希望者がいれば弁論大会にも出場していた。
(*暗唱=指定された原稿を暗記して行うスピーチ、弁論=自ら原稿を書きそれを暗記して行うスピーチ)

小6の時の主張会、私はあるスピーカーに目を奪われた。
当時中3の生徒が行う英語弁論のスピーチだ。
とても流暢で、耳心地がよく、楽しそうに話していて、活き活きしている姿が印象的だった。何よりとてもかっこよかった。
そしてその瞬間私は決めた「中学生になったら絶対これやる!」ってね。

中学時代の学校に行く1番のモチベーションはきっとこれだった感がある。

弁論大会への代表は、中2〜中3の中で毎年出場希望者がいるか募り、その中から代表1名を選出する方式をとっていた我が母校。(小規模の田舎の公立中学ゆえ、練習体制を考えても1人しかサポートできなかったのだ)

中2では校内選考に落ちたが、中3でやっと出場の切符を手にする。

高円宮杯全日本中学校英語弁論大会】(通称:宮杯)
伝統ある格式高い大会だということは、出場が決まってから知った。

2学期になったらすぐに原考案となる日本語での作文を書き、日本語の分からないALTにあれやこれや頑張って意味合いを伝えて英文に変えてもらった。

内容に選んだのは中2の時に行った英国ホームステイでの日々。
10日間とのいう短い期間でも、徐々に英語でのコミュニケーションに抵抗がなくなっていった流れや、今後は米国の高校に進学することへの熱意を語ったもの。

県大会が行われる10月まで、朝練・お昼休み・放課後を使ってみっちり英語主任の先生とALTと一緒に練習。
家では原稿をラミネートしたやつをお風呂に持ち込んで練習、携帯の録音機能使って自分の弱点を何度も繰り返し反復練習した。

そんな日々があってか、県大会ではまさかの1位をいただき、県代表として全国大会へと進んだ。

各都道府県から3〜5人の代表が出場する全国大会。総勢151人の同世代と出会える場は今思い返してもとても貴重な機会だ。

公立校からの出場者は他にもいたが、半数ちょいは私立の英語教育に熱心な学校からの出場者ということもあり緊張でドキドキ、でもそれを上回るワクワク感と共に会場である東京へ向かった。

全国大会では、まず全国を4つのエリア分けして予選会が行われ、予選を突破した出場者27名ほどが最終決戦に臨むというもの。
予選会と最終決戦合わせて3日に及ぶ長丁場だ。

私は予選会で敗れたものの、この大会期間中の出会いが今後の価値観に大きく影響することになる。

出場者全員が泊まるのは、本郷にある歴史ある旅館。
各部屋3人ずつぐらいの相部屋で、大会期間中は毎晩交流会が行われていた。
全日本中学生会議】(通称:中会) という硬い名前の交流会。実際は大会を運営をやっていた大学生団体の皆さんがゲームで盛り上げてくれたりして、大会参加者の同士を知れる、わちゃわちゃ楽しい会だった。

『英語のスピーチ』っていう、きっと各々地元ではだれしもがやりたがらないものに自らチャレンジして、尚且都道府県代表に選ばれて集まってきた者たち。
みんながみんな英語学習が好きなのかと思っていたら案外そうでもなかった。将来英語を使いたい場面も、国外ではなく地元の貢献に使いたい子、そもそも英語はただのツールでしかなくほかにやりたいことがある子、などなど。ほんとに様々なビジョンや価値観の子たちがいた。

今まで英語を使うシチュエーションとして、主に国外を想像してた私からすると、『英語』という言語の可能性を広げる場となったことは確かだ。

そんな地元じゃ出会えないような人たちの中でも、高校留学という進路は私だけが予定していた。
ただ、地元の同級生と宮杯で出会ったみんなと違うこと。それは『海外への高校進学』という進路に対して、否定的に言う人が誰もいなかった。
「面白そうだね!」「私もなにかチャレンジしたかったことやってみよ!」「現地の話いろいろ聞かせてね!」
地元で2年ほど応援より否定の言葉を聞き続け自分にとって、それはそれは居心地の良い場所だった。

本来は自身の英語力を試すために出場した宮杯。
だったはずなのに、中会を通して様々な価値観に触れたことで私はより夢や希望を持って残りの留学最終準備に取り掛かることができた。

今でも宮杯で知り合ったメンバーの一部はSNSで繋がっている。
国際系のことしている人もいれば、そうじゃないことをしている人もいる。
どんな生き方を選んだ人からも、とても良い影響を受けているので、あの時出場して、あの場でみんなに出会えたことに心から感謝だ。

夢のような宮杯での日々を終え、時は11月末になっていた。

ぼちぼち留学準備最終段階。
日本を経つ日が徐々に見えてきた。

最終準備段階

運命的に親戚のお姉さんから紹介してもらった語学学校、自ら探し出してエージェント通さずapplyすることを決めた高校。
それぞれへの願書を書き終えて、いよいよ出願のフェーズ。

米国への学生ビザへは、留学する教育機関から I-20 っていう入学許可書的な書類をもらなわいと何もスタート出来ないので、まずは語学学校へ出願を済ませ、無事 I-20 をゲット。

お姉さんに助けを求めつつ、その他ビザ申請に必要な書類(健康診断書とか残高証明書とか)諸々を揃えていってる間に季節は3学期に入っていた。
受験シーズンが本格化し、世間は推薦・一般受験の日は教室に人が少なくなる時期。そんな日はもっぱら自習DAYだった気がする。
私はこの頃、高校への出願に必要だったのは先生たちからの推薦書のみだったので、NHKの英会話講座のテキスト読んだり、現地でスペイン語も勉強してみたかったからスペイン語の参考書読んでみたり、とても自由に過ごしていた。

高校留学することを正式に先生に伝えたのは2学期の三者面談だっただろうか。
「えりさんらしいけど、そんな前例ないし、先生たち何をしたらいいかわからないよ💦」なんて心配をされたが、
「必要な書類あれば持ってくるんで、それまで何もしなくて大丈夫です!ご安心を〜」とだけ言って、学校側からのサポートは特に受けていなかった。(実際、推薦書書いてもらう以外にほんとにしてもらうことなかったし)

日本と違って米国には『高校受験』と言うものがないし、ほとんどの州で公立校であれば高校までは授業料がかからない。
学生ビザで留学する場合は、私立校にしか留学出来ないのだけど、それでも願書を出せば基本誰でも留学できる。
日本国内の高校に進学するより、個人的にはシンプルなフローのように感じる。

無事高校への出願が済んで、ビザの申請も済んで、残すはビザの受け取りのみになった3月。ついに中学卒業の日がやってきた。

学校生活を存分に楽しんでいたか記憶が曖昧だが、卒業式で号泣したことは覚えている。
集団行動は好む方ではなかったが、中3の担任の先生が個々を尊重する素敵な方だったこともあり、体育祭や文化祭もなんだかんだ一生懸命やってたし、念願の留学生活が目の前まで来ていたこともあり、地元を離れることへの実感が湧いてきてセンチメンタルになっていたのだろう。

周囲の理解や協力がなかなか受けられなくてどんなに孤独でも、
日本で高校生になってる自分はやっぱり想像出来ない!私の居場所は違うところにあるはず!
そう心の底から信じて疑わなくて突き進んだ末に、やっと状況が動き出し、前向きな気持ちで終えることが出来た中学生活。

さー後は飛ぶだけだ。


【根拠のない自信】もっと信じてみてもいいかもね

気づいたらここまでで2万文字弱の書いていた。笑

ここまでの超大作を書く予定は全く無かったが、1ヶ月ほど使って書いてみて、私は過去の自分から今とてもエールをもらっている。

家庭環境も、金銭面も、限られたopportunityも、高校留学をしない理由を並べようと思えば、どれだけでも並べられたあの頃。

今でも留学経験を語れば、
「どうせ家庭がお金持ちなんだろうな〜」
「行く前から英語話せたから出来たんだろうな〜」
「ご両親が教育熱心なんだろうな〜」
なんて、こっちは何も言ってないのにいろんなステレオタイプを持たれる。

でも上記で綴ってきたように、留学実現前の私には、
金銭面に裕福な家庭はなく、英語で話すのは楽しいけど実力は中3レベルで、親は教育熱心とはかけ離れた人だった。

それでも何が自分を突き動かし、そして実現可能な方法を引き寄せ、最終的に周囲の協力を得て実現することが出来たのか。

それは紛れもない、根拠のない自信を疑わず、信じ続けたからだ

私の居場所はここ以外にあるはず、
日本の高校に行ってる自分が想像できない、
動き続ければ周りが理解してくれるはず…

そんなことを心の底から信じ続け、行動で示し続けたからこそのアメリカへの高校進学実現だった。

もしこれを読んでいるあなたが、「これをやった方が良い気がする」と少しでも感じている根拠のない自信があるのなら、出来ない理由を並べる前に、素直にその自信を信じて1歩を踏み出しても良いのかも

そしたら見えてくる、予想もしなかった未来が見えたりしてね。

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