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小説 名娼明月

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粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

 博多を中心としたる筑前一帯ほど、趣味多き歴史的伝説的物語の多いところはない。曰く箱崎文庫、曰く石童丸(いしどうまる)、曰く米一丸(よねいちまる)、曰く何、曰く何と、数え上げたらいくらでもある。
 しかし、およそ女郎明月の物語くらい色彩に富み変化に裕(ゆた)かに、かつ優艶なる物語は、おそらく他にあるまい。
 その備中の武家に生まれて博多柳町の女郎に終わるまでの波瀾曲折ある二十余年の生涯は、実に勇気

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「小説 名娼明月」 第63話:不思議の宿

 お秋は、隙があったら逃げ出そうとしているを、この家の主人(あるじ)はそれと認めて声も優しく、

 「決してご遠慮にも、ご心労にも及びませぬ。必ずよきように頼んで進ぜましょう」

 と云って先に立って行く。お秋はそれでも安心はせぬ。どうかして逃げていこうとは思ったが、無理に逃げるところを、また押さえられでもした日には、どういう恐ろしい目に逢わされるとも限らぬ。

 「よし、どうするつもりか、躡(つ

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「小説 名娼明月」 第64話:薩摩屋のお谷

 男が立ち去ると、まもなく、その邪慳らしい女も立去ったが、女はやがて、覚醒めるばかり綺麗な着物を持って入ってきた。

 「さような穢(むさく)ろしき着物は、早く脱ぎ捨てて、これを着換えたまえ。いや、その前に、ひとまず風呂に入られたがよかろう」

 と、大層見下げ果てたる物の言いようではあるが、また、わが子に物を言うような馴れ馴れしさもある。
 ここにおいて、お秋は、いよいよ合点が行かぬ。

 「い

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「小説 名娼明月」 第65話:奇縁奇遇

「小説 名娼明月」 第65話:奇縁奇遇

 お秋は、こんな深い穴に落ちたことを思うて、泣き伏してしまった。二人の仲居も、手のつけようがないので、用事に託(かこ)つけ、相囁(ささや)いて、その座を立った。しかも、室(へや)の雨戸は固く閉ざして、一歩も出ることはできなくした。
 お秋は、旅の疲れを忘れた。空腹も忘れた。そうして、ただ自分の身の上を繰返し繰返し思っては、咽(むせ)び上げて泣いた。

 「顧みれば、自分は巡礼姿である。巡礼姿をして

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「小説 名娼明月」 第66話:捧げし命

「小説 名娼明月」 第66話:捧げし命

 お秋は、何から先に主人(あるじ)に話してよいか判らなかった。
 その後小倉で母に死に別れたこと、長垂の山中で良人(おっと)の臨終に合ったことから、昨日悪漢(わるもの)の手にかかって、ここに売り込まれ、ただ泣くより外に途(みち)のなかったことを、一通り話すと、主人も同情に堪えなかった。
 そうして抱女(かかえこ)のことを、すべて仲居のお谷に任せおるを幸い、お谷が悪漢と牒(しめ)し合わせて、良家の娘

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「小説 名娼明月」 第67話:曇りなき明月

 「父を失い、旅に出て母を失い、良人(おっと)と死別し、世にありとあらゆる辛酸を嘗めて、今また悪漢の手にかかりて女郎屋に売り込まれた。もはや尽きしと思いし悪業(あくごう)、いまだ、なかなかに尽きしとも見えぬ。
 どうせ死したるも同じき命である。思い切って、この家に踏み留まろう。そうして、親切なる主人(あるじ)夫婦を親と頼んで仕ゆる傍ら、仏を念じて悪業(あくごう)の消滅を願おう」

 と、お秋は、越

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「小説 名娼明月」 第68話:女人成仏(にょにんじょうぶつ)の願い(前)

「小説 名娼明月」 第68話:女人成仏(にょにんじょうぶつ)の願い(前)

 かつて大阪の川口の夜、女郎に扮装(いでた)ちて、織田勢を悩殺せしお秋、今、博多柳町は薩摩屋の女郎となって、明月の盛名廓内を圧し、その花を欺く容姿と、他の女郎に見られぬ気品に憧れて、群れ来る遊冶郎(ゆうやろう)の数知れず、明月を一度は買っておかねば話ができぬという有様で、薩摩屋の前は、日暮るる前より、これらの人にて市をなし、薩摩屋の名は、明月の名とともに、日を追うて高いようになった。
 されば、薩

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「小説 名娼明月」 第68話:女人成仏(にょにんじょうぶつ)の願い(後)

「小説 名娼明月」 第68話:女人成仏(にょにんじょうぶつ)の願い(後)

 ともかくも、一度参詣をして、上人に自分の願いを語ってみようと、明月は一日(あるひ)、淑(つつま)しやかに扮装(いでた)ち、人目に触れぬように、萬行寺を訪ねた。境内の庭の砂掃き目正しく、亭々と伸びたる老松の蔭清きに、明月は心を躍らした。
 まず明月は、御堂へ拝して庫裏(くり)の方へ赴き、玄関の外より声を掛けた。声に応じて、障子引き開け、現れたるは、二十歳余りの僧侶。
 思いもかけぬ美人の佇みいるに

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「小説 名娼明月」 第69話:因果の諦め(前)

「小説 名娼明月」 第69話:因果の諦め(前)

 「これより、暇あるごとに当寺に詣でたまわば、女人成仏(にょにんじょうぶつ)の法話も叮嚀(ていねい)にいたすべし。
 そもそも、そなたは、いずこの人にて、いかなることより、可惜身(あたらみ)を川竹の流れには沈めしぞ? 懺悔も、罪障消滅の一端なれば、一通りを物語りたまえ」

 と、正海上人から問われて、お秋は些(すこ)しも秘(つつ)まず、

 「私は、もと備中窪屋郡西河内(くぼやのこおりにしかわち)

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