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「小説 名娼明月」 第65話:奇縁奇遇

 お秋は、こんな深い穴に落ちたことを思うて、泣き伏してしまった。二人の仲居も、手のつけようがないので、用事に託(かこ)つけ、相囁(ささや)いて、その座を立った。しかも、室(へや)の雨戸は固く閉ざして、一歩も出ることはできなくした。
 お秋は、旅の疲れを忘れた。空腹も忘れた。そうして、ただ自分の身の上を繰返し繰返し思っては、咽(むせ)び上げて泣いた。

 「顧みれば、自分は巡礼姿である。巡礼姿をして、女郎屋の室(へや)に打ち込まれて、動くこともならぬ身とされてしまった…」

 母の死が思い出され、金吾の死が思い出されて、いつまでも、いつまでも、涙が流れて止まぬ。霜結ぶ夜であろう。火気も灯火もなき暗がりの夜は、寒さが肌に食い入るばかりである。管弦の音に、遊女町は次第に更けていった。
 お秋は終夜泣き暮した。そうして微睡(まんじり)ともしなかった。日は高く昇ったけれども、遊女町の常として、まだ起き出づる者もない。
 一人、この薩摩屋の主人は、いつもより夢早く覚めて起き出た。主人は、皆の者の眠りを覚ますも気の毒と思い、静かに下に降り、自分で水を汲み、顔を洗って、そのまま裏へ出で、朗らかな朝の大気に触るるを、心地良げに、奥庭の辺りを逍遥(ぶらつ)いていると、ふと、どこからともなく泣き声が聞こえてくる。女の泣き声である。隣家か自分の家であるかと、耳を澄ませば、泣き声は絶えてしまって、雀(すずめ)の鳴き声ばかりが聞こえる。

 「さては、今のは虚耳(そらみみ)であったか…」

 と、二足三足進んでみたら、またしても、その泣き声が聞こえる。確かに女の泣き声である。しかも、自分の家らしい。
 主人は、いよいよ不審に思った。

 「今ごろ自分の家で女の泣き声がするとは、何であろうか? また、あのお谷の婆が、女郎でも無理非道に折檻したものであろうか?」

 と、樹の間を潜って、泣き声のする方に近寄れば、泣き声は離亭(はなれ)の中から聞こえる。

 「まさしく、この室にあって、女が泣いている!」

 と思って、戸を開けてみると、主人は驚いた。巡礼姿の一人の若い女が、畳にうち臥して、声も絶え絶えに泣いている。旅に疲れお腹を干しているのか、端で見るのも気の毒なくらい、窶(やつ)れ衰えている。

 「どうして、巡礼女が自分の家には来ているであろう? それにまた、何であんなに泣くのであろう? 実に不思議である。多くは、また、あのお谷の仕業であろうから…」

 と、主人がお谷を呼ぼうとして、その時、悩ましげに畳より挙げし巡礼の顔に目を留めて驚いた! お秋である! 自分がかつて、小倉の旅籠に泊まりし折、金借りし男より無理を迫られ、絶体絶命の場合になっていたのを助けてやった、お秋である!

 「あのお秋が、今どうして、ここに、かかる浅ましき巡礼姿して来たのであろうか?」

 と、主人は、あまり驚いて、言葉さえも出なかった。
 お秋も驚いた。夢ではないかとばかり驚いた。小倉で自分ら母娘の難渋を救ってくれた大恩人が、この楼(うち)の主人であったかと思えば、悲しみもうち忘れて、ひたすらに世の奇縁に驚かされた。
 胸を鎮めて、ようやく口を切った。そうして、お秋がどうして、今のような悲しい身の上になったかを訊いた。
 お秋は、かつて自分ら母娘を救ってくれ、名も名乗らずに立去ったる、あの情け深い人が、この薩摩屋の主人であったことが、あまり幻のように思えてならなかった。そうして、主人の尋ねしことに答えるのさえ忘れていた。

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